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零人-19

 キリキリキリキリ・・・。
 耳障りな軋る音。
 キリキリキリキリ・・・。
 八文字アリスの壊れる音。
 キリキリキリキリ・・・。
 応接机を挟み、向かい合う八文字アリスは項垂れていて。零人からは、その頭頂部から肩、窮屈そうに突き出された真っ白い膝位しか見えない。
 顔は髪の毛の陰になり、窺えない。挙げ句、その全体を優美という言葉以外に評しようのない五指を備えた両手で覆っているので・・・。
 全く、その姿は絵になる。
『苦悩する美女』とか『泣く乙女』とかいったタイトルを付けて、描いたり写真にしたりして、額縁に入れて飾りたい程だ。
 が、それだけに、零人はついつい吹き出してしまいそうになる。
 その黒く艶やかな髪の毛と、優美な指の奥に隠された顔を想像してしまうと、そうならずには到底いれない。
 八文字アリスの顔は、それ位に、その一流モデル並のプロポーションとはかけ離れた『原始人顔』なのだ。
 しかし、それはさて置き・・・。
 零人は目の前の八文字アリスを哀れむ。
 セバスチャンスピーカー卿のパッチ物。
 セバスチャンスピーカー卿の偽物。
 本人の意思ではなく、偽物にされた八文字アリス。
 己の行動の意味も知らなかった八文字アリス。
 己の行動に意味がない事も知らなかった八文字アリス。
 キリキリキリキリ・・・。
 そして、壊れた八文字アリス。
 キリキリキリキリ・・・。
 そして・・・。
 キリキリキリキリ・・・ギリギリギリギリ・・・ボリン、ボリボリ・・・ゴキン。
 ・・・。
 音が止まった。
 パッチ物のセバスチャンスピーカー卿は崩れ去った。崩壊の音と共に。
 そして残るのは本物の八文字アリス。
 上書きされたパッチ物のセバスチャンスピーカー卿が崩れ去り。目の前で踞る八文字アリスは、正真正銘の八文字アリス。
 八文字アリスの顔を覆っていた両手が下がる。
 両手がダラリと落下して、パフンとソファーを鳴らす。
 八文字アリスの顔・・・それはいまだ、俯き、髪で隠され、よくは見えないが・・・その顔辺りから、何かが数個、コロンコロンと応接机に落ちた。
 白地に赤のマーブル模様の、指先に摘める程度の大きさの・・・。
 ・・・歯・・・。
 形からして奥歯・・・。
 八文字アリスが小さく震えた。いや、震えたというより、揺れた。
 小さく、頭だけがユラユラと揺れた。
 そしてまた、応接机に数個、コロンコロンと歯が転がる。
 奥歯と犬歯が合わせて七本。応接机の上で、血液と唾液にまみれ鈍く光っている。
 ゆっくりと、八文字アリスが顔を上げる。
 先程迄と何も変らない原始人顔。ただ少し違うのは、やや頬が痩けて目が赤く充血している事と、唇の端に血液混じりの唾液が溜まっている事位。
 だが、それは、その顔は、さっき迄の八文字アリスとは明らかに違った。
 まるで別人に見えた。
 セバスチャンスピーカー卿の上書きが崩れ去ったという事から来る印象の変化・・・と、いう訳でもない様に思える。
 合計七本の抜歯による輪郭の変化・・・的な違いでもない。
 まるで、明らかに、確実な・・・別人。
 それは、確かにそうなのだが・・・言ってしまえば、確かに別人なのだが・・・。
 セバスチャンスピーカー卿のパッチ物と正真正銘の八文字アリス。確かに、その二つは別人だ。しかし、それは名前=記号の違いに過ぎない。
 それは『名は体を表す』・・・と、いう事なのか?
 八文字アリスの口許がモゴモゴと動く。
 口内を透かし見る事等出来ずとも、分かる。抜歯の傷口を舌先で触っているのだろう。
 きっと、一気に七本も歯の抜けた口内が違和感で堪らないのだ。
 すると、チゥ・・・。
 唐突に八文字アリスが唇をすぼめる。
 可愛く例えればキスの口。
 可愛くなく例えればタコの口。
 次の間。
 零人それを避ける事が出来なかった。
 ものの見事に虚を突かれた。
 生暖かい、粘性の強い液体・・・唾・・・正確には、唾や痰や涎や血液や・・・今、八文字アリスの口内から採取出来る液体全ての混ぜ合わされた物。
 成る程、あの口はこの為か・・・この液体を俺の顔面に吐き付ける為の発射口の形だったのか。
 って、畜生!油断した!
 しかも、見事に左の眼球に命中させやがった!
 とは言え、被害を受けた左目に、痛みや痺れの様な症状は出てはいない様子。後々、何かの症状が発症するかもしれないが・・・今の所、取り敢えずは即効性のある毒物等は含まれてない様だ・・・等と、安心は出来ない。何せ唾だ!痰だ!涎だ!血液だ!仮に八文字アリスが絶世の美女であっても、唾や痰の顔面シャワーを喜んで受け入れるタイプの男では俺は決してない!と、怒っている余裕もない。
 零人の生きている方の右の視界の中で、八文字アリスがそっと、右手で左の肘辺りを擦った・・・いや、摘んだ。
 その行動が、どうにも嫌な気がして・・・その、摘み方が、どうにも不安な気がして・・・零人は直感的に右足で力一杯、応接机を蹴り上げる。
 決して安い作りではない、重量感のある応接机がグワリと持ち上がる。
 それ程に思いっ切りに蹴り上げた。素足だったら、足の指を五本共軒並み骨折してもおかしくない。
 先程のシャワー後にブーツを履いて出て来た己の先見の明に喝采。する間もなく、零人は左足で床を蹴り、その勢いで後に回転、ソファーの背凭れを乗り越え様とした瞬間・・・それは一瞬の出来事で、理解するには余りに一瞬で、余りに非現実的過ぎた。
 が、理解は後回しにして・・・現実に目撃した事実。空中で応接机が斜め四十五度の角度で真っ二つに分断された。斬れた。
 そして、二枚に別たれた応接机の間から、八文字アリスの顔が見えた。
 八文字アリスは笑っていた。
 薄く口を開いて。
 ニィ・・・と。
 その口の中は、深く、真っ赤に染まっていた。
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