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零人-4

 電車が『天海稲荷駅』へ到着すると、零人は人込みを掻き分けホームに降りる。
 帰宅客でごった返す駅には蛍光灯のランプが燈され、その明かりの届かぬ辺りは、既に夜が昼に取って代わろうとしていた。
 もう、そんな時間か?
 零人はアナログとデジタルのダブル表示の腕時計を見て、アナログが五時三十五分辺りを指し、デジタルが五時四十三分を表示している事を確認すると、続いてポケットの携帯電話を探る。
 デザイン重視で購入した腕時計は昭和の時代のハイテク時計だ。それ故に平成の時間感覚に追い付かないのか、時間がすぐ狂う。今回みたいな場合は間を取って五時三十九分と考えれば良いかもしれないが、零人は必ず腕時計と併用し携帯電話で時刻を確認する様にしている。
 それは一見、二度手間の様にも思える・・・と言うか、明らかな二度手間だ。しかし、それはそういう腕時計を愛好する己の宿命だし、何よりそうする事により腕時計の時間の狂いをこまめに確認修正する事が出来て一石二鳥だ。等と本末転倒な事を本気で零人は考えている。

 「あれ?」零人が眉をしかめる。
 いつもズボンの尻ポケットに詰め込まれている携帯電話がない。
 鞄の類を一切持たない零人は、再度ポケットを探る。ズボンにジャケットにシャツ、全てを確認したが、やはり携帯電話はなかった。
 何処かに落とした?
 では、今日一日自分は何時何処で携帯電話を使ったか?
 が、それは思い出す迄もない。昼前に是々絵利衣から掛かって来た電話に出た一度のみだった。
 そうすると、外で落としたのではなく、家に忘れて来た可能性の方が高い。
 しかし、まぁ、それはどちらでも良い。別にさして大切な物でもない。外で落としたのならまた新しいのを買えば良いし、家に忘れて来たのならそれはそれで何の問題もない。今は唯正確な時間が知りたいだけなのだ。
 と、零人は駅構内の壁時計を見る。
 五時四十五分。
 誤差、アナログ十分程、デジタル二分程。
 致命的な誤差ではない。
 それにしても、本当はもう少し早く帰り着く予定だった・・・。
 予定外に電車を乗り違え、車内で物思いに耽り、ついつい帰宅が遅くなった。
 もう三十分早ければ、この欝陶しい人塵、否、人込みに巻き込まれずにすんだのに・・・。
 零人は人の流れを避けてホームの端に寄り、我先にと改札に向かう人々を眺め駅構内が空くのを待つ。頃合いを見て改札を抜け、駅に一つしかない出口を通り表へ出る。目の前に鳥居を模した『天海稲荷商店街』の古びた看板が見える。
 この商店街のはずれにある『赤尾煙草店』、その二階に零人の間借りしている部屋があるのだ。

 商店と民家が混ざり並ぶ商店街を歩くと、あちらこちらから「零人君、おかえり」や「零人、晩飯は決まってるのかい?」や「よ、零人ちゃん、肉安くするよ」等と名指しの声が聞こえる。
 少し煩わしいが、商店街の一店舗である赤尾煙草店の二階に暮らす零人は、一応世間的にはこの商店街の一員である。赤尾煙草店の評判を落とすのも如何かと、零人は仕方なくその一々に軽い会釈で答える。
 やはり、この時間の帰宅は苦手だ。
 いい加減、零人が会釈にもウンザリし始めると、何処からともなく「おーぅい!零!おーぅい!零!」と、一際大きな声が聞こえてくる。
 声の主が誰かは分かっている。『零』なんて呼び名で零人を呼ぶ人間はこの商店街に、いや、正確にはこの世に一人しかいない。
 その人は「おーい、やいよい、零やいよい」と、奇妙な節で歌う様に商店街を歩き零人に近づいて来た。
 上下揃いの小豆色のジャージに、紫色の髪を結わいた古風な日本髪の老婆。赤尾煙草店店主であり零人の大家である赤尾マスである。

 マスは書き損じてクシャクシャに丸められた便箋程に皺くちゃの顔をツイと突き出し「零やい、今晩のおこんはバーグとロッケどっちを好むか?」と聞いて来た。
 マスは時々、独自の短縮語を使って話す。『おこん』は献立『バーグ』はハンバーグ『ロッケ』はコロッケである。
「どっちでも良いよ」
「どっちでも良いが一番困る」
「じゃあ、両方」
「なら、カレイラにするかいの・・・」
 ちなみにカレイラはカレーライス。
「カレーって。ハンバーグでも、コロッケでもねぇじゃん」
「じゃあ、バーグカレイラとロッケカレイラのどっちを好む?」
「いや、だから、どっちでも良いよ」
「いや、だから、どっちでも良いが一番困る」
 いつもの不毛なやり取り。零人はいつだって「どっちでも」と答え、マスはいつでも選択肢通りの献立を作らない。
 無限地獄に陥る前に「じゃ、先に帰ってるから」と、零人は会話を断ち切りマスと別れる。
 別れ際、マスが「ほい、零、これ」と、携帯電話を差し出した。
 それは、零人のなくしていた携帯電話。
「忘れとったぞ。何回か鳴っとった。零、こりゃ携帯せにゃただの電話ぞ」
「知ってるよ。で、誰から電話?」
「知らん、おそらくオンじゃ」
「女って、出たの?」
「うんにゃ、私ゃこーゆーボタンだらけの物は嫌いでね。だからジャージ」
「じゃあ、何で女って分かるの?」
「勘」
「つか、勝手に人の携帯持ち歩くなよ」
「じゃから、携帯せにゃ、唯の電話じゃ」
「使い方も知らねえ癖に何で勝手に持ち歩くの」
「お前が携帯せんからじゃろ」
 これ又、不毛な会話。
 零人は携帯電話を受け取ると、今度こそマスと別れ赤尾煙草店への道を歩いた。

 無人の赤尾煙草店のカウンターに出された、マス直筆の『隣接の自動販売機にておもとめください』と書かれた不在札を横目に、零人は煙草屋脇の階段を登り、所々に赤錆の浮く古びた鉄扉のノブに手を掛ける。
 表札代わりに貼付けた『チョコレート探偵事務所』のテプラシールは、黄ばんで文字も掠れ、その機能を殆ど果たしてはいない。
 ふと、零人がドアノブから手を離す。
 声?
 ドアの奥から何か聞こえた気がした。
 誰かが部屋にいる気配がする。
 零人は、そっと一歩後退り、足音を立てぬ様に階段を降りた。
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千夜子-4

 一つ目の暗号はなんなく看破。
 暗号というにはお粗末な、あまりに安易すぎる答えを前に私は躊躇ってしまう。
 きすにもも。
 これが〈桃にキス〉なら〈桃〉=〈ビッグピーチ〉=〈桃尻〉で「Hey! Kiss my ass!!」ってなわけで挑戦状!? ぬぬぬーとかなるんだけど、私が導き出した言葉はもっともっと安直ストレートで多少面食らう。
 それは正に出来すぎのお誂え向きな物語でその主人公は私。そして、零人だ。
 私の中で少しだけ期待していた展開を「はいどうぞ」と用意されていたようで、これはミスリードなんじゃないかと深読みしたくなるけど私はしない。現時点では、しない。
 ここまでの情報と提示された答えを私は鵜呑みにする。現時点で指し示されている全てを〈正解〉と位置付ける。
 でも私はそれらを鵜呑みにしてるだけで決して飲み込まない。今ある〈正解〉が〈不正解〉でもそれは完全な〈不正解〉ではない。それを〈正解〉として盲信/消化してしまう前に新しい情報をどんどん飲み込んで溜め込んで吐き出す。間違っていた情報の消去と新たな情報のインプット。そこからまた必要な情報だけを選んで飲み込んで溜め込んでいく。
 その作業の繰り返しを私はちゃっちゃ、ちゃっちゃと行う。チャッチャ、チャチャチャチャチャ鵜!
 思考の脱線は気分の高揚が生み出す。それが悪ふざけに発展しないように私はひとつ息をついてキーボードに目をやる。
 パソコンのキーボードには大抵左上に英字が、右下にひらがなが表記されている。これはローマ字入力とかな入力それぞれに対応して配置された文字列である。
 きすにもも。
 仲村由里音からのメールにはそう書かれていた。
 これはかな入力で打たれた言葉だ。〈き〉の左上には〈G〉が配置されている。同じように〈す〉には〈R〉、〈に〉には〈I〉、〈も〉には〈M〉が配置されている。
 私はローマ字入力に切り替えて〈きすにもも〉と打ち込む。
 画面にはこう表示されている。

 GRIMM

 そう、グリム童話のグリムだ。

01.jpg

 これが私を面食らわせた安易かつ安直な答え。
 お菓子の家への招待状とメールから浮かび上がった〈GRIMM〉。このメールが仲村由里音から送られたのか違う第三者が仲村由里音のメールアカウントを介して送りつけてきたのか。そんなこと今は分からないし、どちらでもいい。
 ただGRIMMによって生み出されたヘンゼルとグレーテルはお菓子の家を探し出す。これが二つの符丁の符合から導かれた現時点での〈正解〉であろうことは間違いない。そしてこれが今後〈正解〉となるか〈不正解〉に転がるかは分からないけどどうせならポジティブに捉えるべきなのだ。
 ここにヘンゼル役の零人はいない。
 私が赤尾煙草店でタバコガールをしている時にブーツをガンガン鳴らしながら階段を降りてきた零人は「ちょっと出て来る」とだけ告げたまま戻っていない。
 もう一度零人の携帯を鳴らしてみる。
 プ、プ、プ、プ、プ、トルルルル、トルルルル、トルルルル、トルルルル、トルルルル。
 私は携帯をしまって立ち上がる。
 そしてこの物語を私ひとりで立ち上げる。
 零人が電話に出ない/出れないということは今はまだ零人は〈不必要〉であるということなのだ。
 私は車のキーを手に取ってノートパソコンをバッグに入れ、事務所を出て『外出中』の札を掛けて階段を降りる。
 どうも私の頭の中にいつもの屁理屈思考が充満していて物事をわざわざ複雑に考えているようだ。
 店を覗くと赤尾のばあちゃんはまだ戻ってないようだ。私はそのまま店の裏手に停めてある愛車bB(通称ベベ子)に乗り込み、エンジンをかける。
 夜の闇が次第に天海町を包み込もうとしている。
 私はアクセルを踏み込んで走り出す。カーステレオから流れ出したスカのリズムはオープニングテーマに相応しい喧騒でわめき散らしている。
 
 

零人-3

 キリキリとした痛みが走り、零人の右手小指が、己をしゃぶれ!吸え!齧れ!と脅迫する。
 零人が拒否の意を示すと、それは例えようのない不愉快さ、敢えて表現するなら『全身の皮膚の裏を億千のヤスデが這い回る以上の心地』に変わり、鳥肌、脂汗、吐き気、全身のコリ等の症状を引き起す。
 零人はそれ等を隠す様に「それでは」とか何とか、「何か分かり次第」とか何とか、適当な言葉でその場を締め括り、乱暴に千円札を一枚テーブルに置き、覚束ない足取りでフラフラと喫茶店を出た。
 目の前で顔を激しく歪め、額に大量の脂汗を浮かす零人に、不審を抱かぬ程鈍感ではない是々絵利衣が零人を追い「大丈夫ですか?平気ですか?」と聞く。
「ええ…ちょっと、アレです…アレ…風邪…はい、風邪です」
 己さえ騙くらかす程の嘘つき零人とは思えぬ下手な嘘。
 背後で「冷房、強すぎですよね。喫茶店。もう十月だって言うのに…」等と是々絵利衣が愚痴る。
 お前が選んだ店だろ!とツッコむ気力もない零人は、そのまま駅に入り、券売機に適当な金額を投入、適当に切符を買い、倒れ込む様に自動改札を抜ける。
 改札の外で是々絵利衣が何か言ったが、良く聞こえなかった。と言うより、良く聞いてなかった。
 切符購入の際に出たおつりか何かの事か?それとも何か他の事?まぁ、何でも良い。
「大丈夫ですよ。九好は必ず見つけ出します」
 零人は振り返り胸を張り、なるたけ自信に溢れた笑顔で言う。
 はたして笑顔は上手く作れたか?きちんと胸を張れてたか?そもそも彼女は何と言ったのか?等、些かの疑問はあった。が、調度その時ホームに電車が入って来た事もあり、零人はそれ等の疑問は忘れて取り敢えずその電車に乗り込んだ。

train2.jpg

 行先を確認せずに乗り込んだ電車は、零人の住む天海町とは真逆の方角へ進んだ。
 今の時間帯は通勤通学は当たり前で帰宅客にも多少早い時間らしく、車両には零人を除き五人の客しか乗っていない。
 零人は、この電車が急行である事や、この先数駅は停まらずに走り続ける事を告げる車内アナウンスを聞きながら、右手の小指を口元に運び、五人の客の視線も憚らず口に含み、チューペットよろしくに甘噛み、チュパチュパと音を鳴らし吸う。
 小指の痛みが徐々に薄まり、脂汗が引く。鳥肌や吐き気が治まり、全身のコリが解れる。
 そして頭が冴渡る。
 万能。
 そんな気さえして来る程に冴える。
 今ならどんな難問も奇問も解き明かせる気がする。
 …だけ。
 当たり前。
 こんなのは唯の悪癖、唯の幼児退行に過ぎない。
 何の意味も力もない行為。
 それでも、零人は小指をしゃぶり続ける。
 零人の唯一の証、零人が『0人』ではなく『れいと』である証、チョコレートの『れいと』である証を…。

 ガリッ…。
 零人は一際強く小指に歯を立てる。
 小指に再び痛みが走る。
 が、その痛みは先程のとは違う鉄の味のする痛み。
 零人は舌先でその患部を探り二、三度舐めると、頬をすぼめ強く吸う。
 血の味が口一杯に広がり、零人は目を細めそれを味わう。
 ああ…。
 と、零人は思う。
 ああ、まるで俺は変態だ。
 確かに、己の血を吸いながら零人は軽く興奮している。紛れも無い変態である。
 そして、徐々に膨らむ股間。
 「最悪だ…」零人が呟く。
 が、この乗客の少ない車内ならさして気にする所でもない。
 実際、零人のモノは測り比べた訳ではないので定かではないが、一般並で極小でも極大でもない。ズボンの上から見れば、せいぜい少し大きめの股間の皺の一つ程度。
 モゾモゾと体を動かし股間の位置を上手く皺っぽく調整して、零人は屈木井九好の事を考えた。
 勿論、それはイヤラシイ妄想等ではなく、物語の進展の為に考える。
 屈木井九好とは一体どんな女だったのか?
 顔、体、仕種、声、匂い…どれもボンヤリと霞掛かって朧な輪郭しか思い出せない。強引に思い出そうと霞を払うと、そこには全く的外れの姿が浮かんでくる。
 それは、よく行くコンビニのアルバイトの娘だったり、最近売り出し中のアイドル歌手だったり、大家の婆さんだったりと、次々に入れ代わり立ち代わる。
 俺は屈木井九好を何度も何度も抱いている。遊園地や水族館に行く様なデートだって一度や二度ではなくした。彼女の部屋で彼女の手料理だって食べた。
 それでも…俺は屈木井九好を上手く思い出せない。
 思い浮かべる屈木井九好の姿が、遂には性別を越え、某有名AV男優にまで及ぶ頃、漸く零人の股間の膨らみも落ち着き始め、電車が停車駅に到着した。
 
 電車を降り連絡通路から向かいのホームに渡り、案内の電光掲示を見ると次の電車にはまだまだ時間があった。
 自動販売機で缶コーヒーを買い飲む。
 缶コーヒーは少し鉄の味がした。
 缶コーヒーと血液、確かにどちらも鉄の味がした。が、それ等二つは全然違う鉄の味だった。
 そもそも鉄の味ってどんなだ?
 と、零人は飲み干した缶の縁を軽く舐てめる。が、よく分からないので、辺りに人気のないのを確認して、駅の屋根を支える鉄柱を舐めてみる。
 ザラザラした舌触りと埃の匂い…が、やはりよく分からない。と言うか、俺は一体何をやっているんだ…。
 どうにも変だ。
 自分が正常でない事がよく分かる。
 それは、今日、是々絵利衣の電話を受けた時から何と無く感じてた違和感。
 行動も発言も思考も、どこかちぐはぐで自分で自分が読めない。
 ふと気付くと、途方もない所で途方もない事をしている。
 例えば、次の瞬間ホームに入って来る電車の前に突然飛び込むとか…。
 その時、これ見よがしのタイミングでホームに電車入って来る。
 ゴンゴンと轟音が近付く。
 突風がブアッと零人を煽る。
 零人は…。
 その電車に…。
 飛び込まない。

 その代わり「いい加減にしろ!いつまで逃げ続けるつもりだ!零人!」と叫んだ。
 その叫びは電車の轟音に飲み込まれ消えた。
 
 

千夜子-3

 英語で〈招待状〉と書かれた小さな封筒に入っていたカード。
 冒頭に書かれた〈Supreme Sweets Sanctuary〉という言葉は直訳すると〈至高の、スイーツの、聖域〉といったところだろうか。至高のスイーツの聖域。なんだろう、デザート天国グレートみたいな感じか。そして差出人らしき〈Sir Sevastian Speaker〉という名前。こちらはセバスチャン・スピーカー卿とでも訳せばいいんだろうけど、それにしても胡散臭さの漂う名前だ。
 文面からすれば〈お菓子の家〉=〈至高のスイーツの聖域〉であり、そのプロジェクト(?)に尽力した仲村由里音がセバスチャン・スピーカー卿なる人物(お菓子の家の所有者か?)に招待されたということになる。オーライ?
 しかし問題なのは中学生の仲村由里音が両親に「お菓子の家に行ってくるねー」と言ったわけでも書き置きをして出かけたわけでもなく、その朝忽然と姿を消しているという事実で、この〈招待状〉が見つかったのは仲村由里音が消息を絶った後であり、由里音の失踪とセバスチャン・スピーカー卿からの招待状には何らかの関係があると思って間違いない。

 お菓子の家とセバスチャン・スピーカー卿。

 さらに私の思考回路を混線させるのが仲村由里音の携帯から私に送られたきたメールだ。
 タイトルのないそのメールの本文には、たった五つの文字があるだけだ。

『きすにもも』

 何それ?
 キスに桃?

 ひとまずメールの解読は置いといて。
 いっぺんに考えても思考は分散するだけ。一つ一つしらみつぶしに攻めていくしかない。
「セバスチャン・スピーカー卿という人物に心当たりは?」
「あるわけないでしょう。そのセバスチャンが知り合いなら直接聞いてます」
 そりゃそうだ。そんな貴族みたいな名前の知人なんてそうそういない。少なくとも一般日本人には。
「由里音はそのセバスチャンなんたらにさらわれたんでしょうか」
「それはまだ分かりません。では仲村さん、お菓子の家に聞き覚えはありませんか? 例えば由里音ちゃんがお菓子サークルに入っててハロウィンに向けて巨大お菓子の家を作ってたりとか」
「聞いてませんね」
「お父さんが知らないだけでは?」
「知らないよ! 受験も控えてる時期にそんなことしてるわけないでしょう!」
 仲村は苛立った様子でポケットからさっき買った煙草を取り出す。
「取り乱しました。煙草いいですか?」
「もちろん」
 灰皿を手渡すと自身を落ち着かせるように大きく紫煙を吐き出してソファに身を落とした。
「母親も一切そういった話は聞いていないようです」
 そう言ってから仲村は「あ」と声を漏らす。
「お菓子の家って、あれですかね? ほら、童話のヘンデルとグレーテルに出てくる、お菓子の家」
 訂正。ヘンデルでなくヘンゼル。
 森に捨てられたヘンゼルとグレーテルはさまよい歩くうちにお菓子で出来た家を見つける。そこは悪い魔女の家なんだけど最終的に二人は魔女をやっつけるし二人を捨てた両親もごめんねっつって戻ってくるしでハッピーエンド。そんなグリム童話のお話。
 捨てられたヘンゼルとグレーテル。
 現代のお菓子の家。
 出来すぎじゃない?
 キリリ。
 寸足らずの左手小指に痛みが走る。
 キリリリ。
 少し熱をもった小指は私に何かを訴えているんだろうか。
 これは、私の…。
 そして。
 零人の携帯を鳴らしてみる。呼び出し音だけが響き、出る様子はない。
 決断。

「由里音ちゃんは私が見つけ出します」



 私は仲村由里音捜索の依頼を正式に引き受ける。
 仲村由基雄は「時間の限りお手伝いしますから」と当面の捜索費用を置いて帰って行った。
 静寂。
 机の上に並べた招待状とカード、そして仲村由里音の写真。パソコンのデスクトップには由里音からのメール。お菓子の家。セバスチャン・スピーカー卿。頭文字がすべてSから始まる英単語。ヘンゼルとグレーテル。きすにもも。
 私の頭の中ですべてをシャッフルしつつ吟味していく。頭の奥の方に緊張感が充満してギュンギュンギュンギュン渦巻いていく。
 私の視線は机の上をめくるめく速度で行き交う。

 あ。

 わかった。
 私冴えてる。
 冴えてるっつうか簡単すぎる。

 きすにもも。

 この事件は私に解決されるために私の前に現れたんだ。

 
 

零人-2

 結局その後も是々絵利衣の機嫌は直らず、零人を睨み付けテーブルをバンバンと叩き喚き散らし続けた。

 いきり立ち早口で吃りながら喚く是々絵利衣の言葉は酷く聞き取り辛い。それに加え思い出した様に「薄情者だ」「人非人だ」と零人を罵倒するから、その内容は重ねて酷く分かり辛い。と言うかサッパリ分からない。
 それでも零人はそんな是々絵利衣を止めようとはしなかった。
 だって、下手な横槍の一本でも入れて、バンバンとテーブルを叩くその拳がそのままビュンと己の顔面に、なんて冗談でも笑えない。
 肉体的苦痛を受ける位なら精神的苦痛だ。
 それに元々そんな風に彼女を怒らせたのは自分だ、その位の責めは甘んじて受けよう。
 たかだか取り乱した女の罵りや周囲の人間の好奇な視線など、俺がかつて味わったあの最大級の精神的痛みや傷みや悼み…に比べれば、ヒヨコの後ろ回し蹴り位のモノだ。まぁ、実際にヒヨコの後ろ回し蹴りをくらった事等ないので、その威力の程は不明だが…。

 とにかく、彼女には好きなだけ喚かせて、思う存分テーブルを叩かせる。叩かれ続けるテーブルの安否は多少気になるが、それはこの店のマスターが気にする事だ。それに、彼女の話がどれだけ聞き取り辛く分かり辛かろうが、それはたいした問題ではない。何故なら、零人は是々絵利衣から掛かって来たあの呼び出し電話で、一通りの『あらまし』は既に聞き知っているのだから。

 その上での知らぬ振りのおとぼけ。
 で、結果この惨状。
 つまり自業自得。

 零人は取り敢えず是々絵利衣が鎮まるのを待つ。
 まぁ、さした用事がある訳でもなし、たかが数分のロスで激変する程繊細な人生を生きてもいない。勿論、探せばそれなりに用事の一つや二つはある。きっとそれは冷房効き過ぎの喫茶店で、ヒス女の罵声をBGMにお茶を啜るよりは有意義な用事の筈だ。
 それでも…と、零人は待つ。
 たいした理由はないが、本題に向かい合うのはその後で十分だ。
 どうせそれにしたって、向かい合う振りに過ぎない訳だし。

 で、数分後…。

 是々絵利衣の怒りが鎮まり始めたのを見計らい、零人は「分かりました」と快活で良く通る腹式呼吸の発声で言う。
 ムフーッムフーッ…是々絵利衣の鼻息はいまだ荒いが、零人はその回復を待たずに「九好を見つけ出せば良いんだね?」と続ける。
「見つかりますか?」と鼻息混じりに是々絵利衣が返すと「分かりません。今の所情報が少な過ぎますし。何より僕は人探しは得意ではないので」と零人は冷静に答えた。
 それは本当の事。
 今ある情報と言えば、数日前に屈木井九好と是々絵利衣のそれぞれに、全く同じ内容の『お菓子の家』への招待状が届けられた事と、それに合わせ屈木井九好が失踪した事だけ。
 それだけの情報で失踪人を見つけ出すのは到底無理。
 その招待状にして、差出人が『Sir Sevastian Speaker』つまり、セバスチャンスピーカー卿と名乗っているという事以外、お菓子の家の場所は疎か差出人の住所も書かれてなければ、消印すら捺されてない様な代物だ。
 それに、その招待状が屈木井九好の失踪に直接関係しているかどうかも定かではないのだ。
 それを情報だ何だと考えるのは早計に過ぎる。
 誰かの悪戯…にしてはちょっとアレだが、それだって十分に有り得る事。
「そんな…」
 是々絵利衣のあからさまな落胆の声。
 その落胆が再び彼女の怒りを呼び覚ます可能性を恐れ零人は先手を打つ。
「でも、大丈夫です。九好が見つかる様、僕も最善を尽くします。これでも凄く心配しているんだ」
 それは少し本当で少し嘘。
 少なからず関係を持つ女の失踪に何にも感じない程、零人の人格は崩壊してはいない。
 でもやはり屈木井九好は見つからないだろう。勿論、見つける努力位はする。けど今の所、何をどう努力すれば良いのかも分からない。
 それでもその発言の効果は絶大だった様で、是々絵利衣は小さく微笑み頷いた。
 それはなかなか素敵な微笑みだった。
 特に両頬に出来た浅い笑窪が堪らない。
 なんだ、笑うと意外に可愛いじゃん。なんてラブコメな台詞を喉元で抑え「僕にだって恋人の一人位護る力はある」と、零人は代わりの台詞にかなり大袈裟な抑揚を込める。
 でもこれは殆ど嘘。
 俺にはそんな力なんてない。何より屈木井九好は俺の恋人ではない。
 屈木井九好は…アイツの身代わりに過ぎない。
 屈木井九好は俺の事をを『恋人』だと周りに喧伝していた。勿論、それは彼女の自由だ。自分で言うのも何だが、彼女にとって『零人』=『恋しい人』=『恋人』だったのだろう。しかし、俺にとっての屈木井九好はそうではなかった。俺にとっての屈木井九好は『アイツ』≒『屈木井九好』∴『身代わり』に過ぎなかったのだ。
 俺は決して恋なんてしない。否、出来ない。否否、出来る訳がないのだ。俺のそんな身勝手が許される筈がないのだ。

 そんな零人に気付く事のない是々絵利衣は、ポッと頬を赤らめて零人を見ている。
 状況は逆転。
 軽蔑から羨望。
 敵意から好意。
 そしていずれ…。

 零人はテーブルに並べられた封筒、招待状、手紙を一つに纏め、是々絵利衣に返す。
「これは君への招待状だから」
 是々絵利衣は少し不安げにそれらを受け取り、膝の上に置いていたハンドバックに仕舞う。
「大丈夫、そんなのはただの悪戯だよ」
「ええ…」
 是々絵利衣が瞳を潤ませ頷く。
 随分としおらしい。
「所で確認だけど、九好が消えた正確な日って覚えてます?」
「ええ、確か…先月の二十日だったと思うけど…」
 キリッ…突然、零人の右手の小指が痛む。
 つい口許に持って行きそうになる衝動を抑えると、零人の顔が酷く歪む。
 でも、それは決して痛みによる歪みではない。
 では何だ?何の歪みだ?
 先月の二十日…九月二十日…何だ?知っている。何の日だ?
 俺は、また何かを失念…いや忘れた振りをしているのか?
 
 

千夜子-2

「お店の方は大丈夫ですか?」
 テーブルに置いた麦茶を一気に飲み干すと男は言った。
「ええ、ただの店番ですから。もうじき帰ってくる頃ですし」
 時計はまもなく五時を指そうとしている。
 事務所に来客があると私は赤尾煙草店のガラス窓に鍵をして〈隣接の自動販売機にておもとめください〉と書かれたばあちゃん直筆の不在札を出しておけばいい。それだけだ。
 それなら店番なんて要らないだろうと思うけど、ばあちゃん曰わく煙草屋に若い女がチョコンと座っているのが古き佳き日本の風景なんだとか。その話をすると毎度ばあちゃんは「あたしだってね、元若い娘だからね。今はもう若くない娘だけどな」と言い、私の「いや、娘じゃねえし」という言葉を笑い飛ばす。それがいつものルーティンワークだったりする。

 私は麦茶のグラスを下げながら男の様子を窺う。
 男は落ち着きなく部屋の中に視線を泳がせている。三十代後半から四十代前半、細身の体に合った品のある濃紺のスーツに皺のないピンストライプのシャツ。悪くない。表情には疲労の色が見えるがその中に細いながらも意志のこもった目をしている。
「あの、失礼ですが」と前置いてから男は口を開いた。「日本人、ですよね?」
「…はい?」
「いえ、アルフライラって名前、珍しいなと思いまして」
「千夜一夜物語をご存知ですか?」
「アリ・ババと四十人の盗賊とか、アラジンと魔法のランプの?」
「そうです、アリ・ババの話は第851夜から860夜、アラジンは第731夜から774夜にあたります。その千夜一夜物語の原書名がアルフ・ライラ・ワ・ライラ。アルフが〈千〉を、ライラが〈夜〉を意味します。私の名前が千夜子ですからそのままアルフライラ。だから単純に名前を繰り返しているだけだったりするんですけどね」
「なるほど、それでアルフライラさんになるわけですね。じゃあ僕はセンターヴィレッジだ。仲村センターヴィレッジ。でも、にんべんの〈仲〉もセンターでいいんですかね?」と言うと慌てたようにスーツのポケットから名刺ケースを取り出した。
「名乗りもせずにすみません、仲村由基雄と申します」
 名刺には『株式会社ナカムラ 代表取締役 仲村由基雄』と書かれている。私もケースから名刺を差し出す。ようやく本題に入りそうだ。
「それでは仲村さん、本日のご用件を伺ってよろしいですか」
 仲村は目を強く見開いた。
「娘の、仲村由里音の行方をご存知ではありませんか?」

 ナカムラユリネ?

 聞き覚えのない名前。
 誰?
「仲村、由里音、さんですか?」
「はい」
「…すみませんが、そのような方とは面識が」
「そんなはずはない!」。仲村は語気を荒げてソファから立ち上がった。「あなたは由里音と最後に連絡を取っていたはずだ」
「私が?」
 私が、仲村由里音と連絡を取っていた。私の周囲にはそんな人間はいない。もう一度頭の中で咀嚼してみる。
 仲村由里音ナカムラユリネなかむらゆりね。
 やはりピンともスンともしない。
 私の困惑を見て取った仲村はこう言う。

「では、りりぃ☆しゅるるるんと言えば分かりますか? 恋恋探偵アルフライラさん」

 その名前なら知っている。
 私はデスクに回り込んでパソコンを起動、インターネットに接続して私のホームページを開く。
 画面上には『恋恋探偵アルフライラ』のトップページが映る。私はインターネット上で恋恋探偵アルフライラとして恋愛相談めいた戯れた真似をしている。りりぃ☆しゅるるるんというハンドルネームは確か年上の男性との恋に憧れる中学三年生。
「そこに書き込みをしているりりぃ☆しゅるるるんというのが私の娘、仲村由里音なんです」
 消息不明の仲村由里音は私のホームページに書き込みをしていた〈りりぃ☆しゅるるるん〉であって、その父親である仲村由基雄が私の目の前にいる。
「ホームページにあった名前を検索させてもらいました。そこでこの事務所の存在を知りまして。記載の電話番号が不通だったので直接伺った次第です」
「話はわかりました。それで私が娘さんと最後に連絡を取っていたというのは」
「由里音が姿を消した9月20日の零時丁度に由里音はあなたにメールを送っています。朝になって母親が部屋に起こしに行くと由里音の姿はもうありませんでした」
 仲村は私を凝視したまままくし立てた。
「それと由里音の机にこんな物が」
 仲村はスーツの内ポケットから出した白い封筒を手渡した。
 そこにはこう書いてある。

 INVITATION?

 中には二つに折られたカードが入っている。


 
 

零人-1

coffee.jpg

 是々絵利衣。
 見た所、歳の頃ならまだ二十代を折り返してはいないだろうその女は、そう名乗ると無駄に冷房の効いた喫茶店のテーブルに一枚の封筒を置く。
 零人が一度そのテーブルの封筒に視線を落とし、改めて視線を女に移すと、女は無言で零人を見詰めていた。
 いや、寧ろ睨んでいる。
 理由は不明、が女は確かに零人を睨んでいる。
 零人が再び視線を封筒に落し「これは?」と聞くと、女は小さな声で「どうぞ」と言った。
 零人は状況を理解出来ないままに封筒を手に取る。女の言う「どうぞ」を「どうぞ、御覧になって」とか「どうぞ、御自由に」とか、そういった意味の「どうぞ」だろうと判断したからだ。少なくとも「銅像」とか「象、象」の聞き間違いではない筈だ。実際、それはどこからどう見てもただの封筒であり、薪を背負って読書をする二宮金次郎でもなければパオーンなんて鳴いたりもしない。
 零人は封筒の中から掌サイズの象が背中に二宮金次郎を乗せ、パタパタと耳を羽ばたかせ飛び出して来る様を想像し、ニヤリと少し笑い封筒を開ける。
 既に封が切られている横開きの封筒を開くと、出て来た物は象でも二宮金次郎でも当然なく、何の変哲もない葉書サイズの招待状と、おそらくは招待文と思われる手紙が一枚。計二枚の紙切れだった。
 零人が封筒、手紙、招待状と、それぞれをテーブルに並べ「これで、全部ですか?」と女に質問すると、女はその質問を無視して「読んで下さい」と不機嫌に手紙を指した。
「・・・」
 少し苛ついたが、ここは黙って従う。
 状況の全く掴めていない現状を改善し、先に進める最善の方法は従う事である。と零人は手紙に目を通す。
 何の事もない少し堅苦しい文面。数点の意味不明な部分を除けばおそらく市販の教本をそのまま少し書き換えただけの招待文。
 零人が読み終えた手紙をテーブルに置くのとほぼ同時に、女が「どう思います?」と聞いて来た。
「はぁ・・・」
 零人は曖昧な返事を返し苦笑いと共に頭をポリッと掻く。
 どう思うか?って、どうもこうも、それ以前の・・・バン!
 突然、女がテーブルを叩いた。
 お互いの前に置かれたティーカップがガチャガチャと揺れ、周りの客が数名こちらを窺う。
 それ位、強く女はテーブルを叩いた。
 「わっ!」とか「おうっ!」とかの驚きの声を抑え、零人は自分等に好奇の視線を向ける周囲の客に、平静を装い、驚かせてすみません、たいしたアレではないんですよ、この娘ちょっと今日アレの日なんで・・・的な会釈で軽く詫びてから女を睨む。
 一体全体何なんだ。全く不愉快だ。突然電話で呼び出され、給料前の寂しい財布に無理を言って片道一時間の道程をわざわざ電車に乗って来てやれば、何だか分からないまま何だか分からない招待状を突き付けられて読まされて、揚句呼び出した本人は至って不機嫌で、睨んでくるわ、テーブルは叩くわ・・・。

「どう思います?」

 女は零人を睨み付けたまま、もう一度繰り返した。

「どうって、何が?」

 零人も女を睨み付けたまま答える。
 しばしの睨み合い。
 徐々に女の顔が赤く変色し始める。あからさまな攻撃色。
 この女、またテーブルを叩くのか?
 零人が警戒すると、女はその警戒を感じたのか感じなかったのか一呼吸置いてからテーブルは叩かずに「あなた零人さんですよね?」と爆発寸前といった口調で言う。
 この女何様だ?初対面だぞ。いきなり下の名前で呼びやがって・・・等と零人は思わない。何故なら零人には姓がないからだ。あの時、あの二十歳の誕生日、零人は姓を捨てた。だから今の零人はただの零人だ。何なら多田野零人と名乗っても良い。いや、嘘だ。でも今の零人に姓がなく、零人を『れいと』以外の呼び名で呼ぶ人間は周りには一人もいない事は本当だ。
 しかし・・・。
 この女、何故俺の名前を知っているのだ?そして、この女は何故、俺の携帯電話の番号を知っていた?そしてそして、俺は何故、何の疑いもなくこの見ず知らずの女の電話に出て、何の疑いもなくノコノコとこんな所に呼び出されたのか?
 俺はまだこの女に自己紹介もしていない、すなわち連絡先を交換する様な仲では絶対にない。そして、何より俺は知らない者からの電話になんて絶対に出ない。
 それが何故・・・?
 どうやら俺には何か大きな隙がある様だ。
 そして、俺はその何かを失念している。
 故に出来た隙。
 零人は嫌な予感に包まれる。
 失念?
 本当か?
 本当に忘れているのか?
 本当は・・・。
 本当はあの時と同じ様に、振りをしているだけではないのか?
 あの時、俺が姓を捨てたあの時に、とても大きな事を忘れた振りをした時の様に。
 嘘を吐き、己を騙し、誤魔化した、あの時の様に。
 アイツを失った、あの時の様に・・・。
 アイツ。
 クソ!
 今更・・・今更・・・。
 もう完全に別れた筈なのに、まだ付き纏うのか、また出て来るのか・・・。
 と、突然零人が自分の右手の小指をパクリとくわえ、しゃぶり、チュウチュウと音を立て吸う。
 女は唐突な零人の奇行に一瞬ギョッと目を剥いたが、気持ちを立て直し、より一層の怒気を込め「あなた、零人さんなんでしょ!」と今度はテーブルをバンバンと叩き怒鳴る。
「そうですよ」
 零人は口から小指を抜き答える。
 そっとテーブルに置かれた、零人の唾液に濡れ光る右手の小指は、関節一つ分位短い様に女には見えた。
「僕は零人です。アナタはぜぜさん・・・で良いんですよね?」
「そうです!是々です!是々絵利衣です!」
「その是々さんが何か僕に用ですか?」
 バン!バン!バン!
 女は完全に箍が外れた様で、テーブルを叩き続け喚き散らす。
 零人は、もうそれを止めようとも周囲に詫びようともしなかった。
「何か用って!アナタ何なんですか?アナタ平気なんですか?さっきからヘラヘラニヤニヤ、ふざけてるんですか?アナタ、心配じゃないんですか?アナタ、九好の恋人でしょ!」

 くすき・・・?

 ああ・・・。
 成る程そうか、それなら合点がいく。
 屈木井九好。
 そうか、あの娘の・・・だったら・・・成る程・・・。
 零人は漸く朧ながら状況を把握する。
 
 

千夜子-1

akizora

 化粧惑星に行きたい。
 私はこの空のはるか彼方にあるだろう化粧惑星に行きたい。
 嘘嘘嘘。化粧なんてめんどくさい。どうせならすっぴん惑星の方がいい。
 そんなことを考えてしまうのはカウンター横のテレビから流れてきた語呂が妙に今の私にすんなり入ってきただけで、普段聞き流していたワードに反応してしまうのは退屈だからこその反応だったりする。
 店内から見上げる切り取られた空はザ・秋晴れって感じでほど良いぽかぽかにほど良い眠気。

 ここは化粧惑星でもすっぴん惑星でもない。私はほぼすっぴんだったりするけど。
 ここは天海町唯一の純然たる煙草店ーつまりは煙草しか売っていないーであって、私と双子の兄・零人はここ赤尾煙草店の二階に住居兼事務所を借りている。零人は外出、赤尾のばあちゃんも外出、私はいつもの留守番で店番。赤尾のばあちゃんがフラメンコを踊っている月水金の午後は店番タバコガールとして店に立っている。いや、座っている。
 とはいえ成人識別自動販売機の導入が世の嫌煙化に拍車をかけたから客なんてほとんど来ないし私はガールなんて年頃でもない。

 晴れ渡った午後の空に私を一句ぶち込んでみよう。

『退屈過ぎて なんかすごく 心が折れそうだわ』

 季語がない。

『退屈過ぎて なんかすごく 心が折れそうだわ秋』

 よし。
 最近よく聞く言葉ではあるけど、ちょっと前まで世間一般<心が折れる>なんて表現使ってなかった。これっていつから当たり前になったんだろう。私の知らないところで空前の心折れブームが到来、私が気付かないうちに一気に収束、その結果<心が折れる>という言葉が一般用語として生活に根付いていったってことなんだろうか。
 そもそも<心が折れる>という表現は格闘技の世界で使われていた。
 腕が折られても心が折れなければ負けではない。
 それこそが不屈の格闘精神。心が<折られる>のでなく自らが<折れる>=気持ちの上でも負けを認めることが完全なる敗北なんだそうだ。
 でも腕折られてる時点でそれ負けだって。それは不屈なんかではなく単に諦めが悪いだけで、相手が腕折れてたらこっちだって手は出さないし、その状態で気持ちは負けてねえとかしつこいよお前早く病院行けよっつー話。
 すんなり負けを認める方が潔くて私好みだ。とか言っても今は負けを認めるわけにはいかず、それってイコール眠気に負けちゃうってことだし、店番しながら私は睡魔と格闘してる。

 退屈な午後に退屈な思考がうろうろしている感覚は嫌いじゃない。

 一人の男が往来からこちらに向かってくる。40代半ば営業マンといった風情。申し訳ないくらい個性がない。スーツにまとわりついた疲労感。こういうタイプはライト系が多い。家族の目と健康を気にしつつもやめられない。無難にマイルドセブンライトか。いや、意外とパーラメント。
 しかし男は店の脇にある階段から二階に上がっていった。
 お客さん?
 呼び鈴の音がする。
 いませんけど。
 階段を降りてくる足音がやむと同時に男が顔を出す。
「あの、二階の事務所は留守でしょうかね」
 額から汗が吹き出している。
「なんになさいます?」
「え?」
「煙草。なんになさいますか?」
「いや、煙草じゃなくて」
「煙草屋に話聞くんなら煙草買わないと」
「……はぁ」
「でしょ?…ほら、情報屋にお金渡すとかよくあるじゃないですか」
「じゃあ、パーラメント」
 当たり。
「何カートン?」
「…いや、一箱じゃ、ダメですか」
「はい、一箱ね」
 私は男が置いた五百円玉とお釣りを乗せたパーラメントを入れ替える。
「で?」
「あ、はい、二階の方お留守だったみたいで、遠方から来たものでどうしたものかと。やっぱり電話くらい入れておくべきでした」
「二階が何の事務所かはご存知なんですね?」
「探偵事務所ですよね」
「何かご依頼で?」
「はい」
 面倒そうな依頼だったら零人のいる時間に出直してもらえばいい。
「あいにく零人は留守にしていますので私が代わりにお伺いします」
「零人? あの、あなたは煙草屋さんじゃ…」
「あ。いえ、訳あってその、あれですね、…ええ、店番をしています」
「はぁ」
 説明するのも面倒だから男の前に名刺を差し出す。
「私は二階の探偵事務所で零人の助手をしております、千夜子・アルフライラと申します」
 男は名刺と私の顔に視線を往復させると言った。

「良かった。あなたに会いに来たんです、アルフライラさん」


 

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