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千夜子-21

「ここまでっす」。蒼井琴璃は笑顔のまま言う。「あたしはここまでっす」
 琴璃が笑顔を固まらせたまま頭を垂れると辺りがしんと静けさを取り戻す。
 目の前にあるのは仲村由里音の部屋だ。
 室内に人工の森が広がる仄暗い部屋にあったノートパソコン。そこに示された《しちし》=《DAD》の暗示。そこから私は《記憶の宮殿》と呼ばれる意識に入り込み、そこでセバスチャン・スピーカー卿と出会った。現実に戻ると赤尾マスが何者かに殺されていた。
 で?
 で、どうなった?
 事態は何も進展していない。最初に仲村由里音捜索の依頼を受けて以来、何一つ進展している事態はないのだ。
 ただ物事が枝分かれに広がり、登場人物が増え、それらに私の思考が翻弄されているだけなのだ。そのどれもに全く収拾のつく気配すらない。放り投げられた事柄が支離滅裂に存在している。
 どうすんだよ、この状況。どうにかする糸口とか用意してあんのかよ。
 私は誰ともない《誰か》に語りかける。
 物事なんて人それぞれの捉え方次第だったりして、現状を進展とも後退とも解決とも捉えられる。いや、解決はしていない。仲村由里音ちゃん見つからないし。仲村由里音ちゃんいないし。
 いないし。
 ひょっとすると仲村由里音ちゃんなんて最初からいないのかもしれない。仲村由基雄も瀬戸内雀尊も赤尾マスも……。「元々ばあちゃんなんていねえ」。私は《記憶の宮殿》にいた零人の言葉を鵜呑みにするまいと思いつつも完全に影響を受けている。そしてそう言う零人だって元々いないのかもしれない。
 実は事件も人物も存在せず、病院のベッドに植物状態で横になったかわいそうな千夜子ちゃんの頭ん中の、全ては動くことすらままならない千夜子ちゃんの願望的な、最終的には病床の千夜子ちゃんが奇跡的に意識を取り戻して万々歳!良かったね、はい本当は夢オチ~!
 そういうのは逃げ口上だからね。
 私は再度《誰か》に釘を刺す。夢オチを禁じ手にする。
 本当は何も起きていないなんて茶番なのだ。物語を構築するのであればそれ相応の準備と覚悟が必要なのだ。
 あるんだよね?
 適当に物語散らかしてんじゃないよ。
 面白い展開だとか奇抜な推理だとかそんな必要はない。現実は《そこ》に存在し、進行し、流動している。物語は現実を追い越せない。事実は小説より奇なり、なり。事件は現場で起きているんだ。聞こえているのか、《誰か》さん?
 なんて。茶化してしまうとまた物語がぶれる。
 だから私は展開させる。
 私の物語を展開させるために仲村由里音の部屋のドアノブに手を掛ける。永いこと誰も触れていなかったような冷たさがすんと伝わってくる。
 この先には待望の《新たな展開》が待っている。物語は《第一章》を終え、《第二章》を迎える。
 だよね?
 私はノブを回し、開け放つ。

 そこには森なんてない。

 そこは真っ白な部屋。白い壁、白い床、白い天井。何も無い、無の白い空間。
 そこに文字が浮かんでいる。正面の壁に赤茶色の文字が書かれている。

 CHOCO
  LATE


 チョコレート。
 その上に一際大きく《×》と書かれている。
 千夜子《×=かける》零人ということなのか、それとも千夜子と零人、つまりはこの双子探偵を否定する意味での《×=ペケ》ということなのか。どちらにせよ、これは私に対するメッセージだ。そして赤茶色のメッセージからは微かに甘い香りが漂う。そう、これはチョコレートで描かれているのだ。
 ポケットに突っ込んでいた携帯電話が鳴る。無の空間においてはそのバイブレーションが音として鳴り響く。
 液晶には何も表示されていないけど私にはそれが誰か分かる。
 でも、…どうする?
 通話ボタンに指をかけたところで私は躊躇する。そこで気付く。分かる。この躊躇が私の思考を進ませる。
 千夜子《CHOCO》が遅れた《LATE》ってことか。私はここまで全てにおいて常に《LATE》、つまり遅れている。その《遅れ》が事態を複雑化している、イコール《×》、ペケであるのだ。
 後手に回るのはやめよう。ここからは先手を取っていかなくては。
 通話ボタンを押し、携帯に耳を寄せると予想通りの声がする。

「おかえり、ここがSupreme Sweets Sanctuary、お菓子の家だよ」

 その声の穏やかさに目尻に涙が溢れてくる。
 声と同時に目の前の『CHOCO×LATE』の文字が動き出す。違う。文字だけでなく、壁自体が動いている。白い壁がゆっくりと上方にスライドしていく。
 幕が上がっていく。
 そこには扉がある。
 扉には『Ⅱ』と刻まれていて、私は「ご丁寧に」とひとりごちて笑う。あからさますぎる。私はまだ、笑う。
 扉に手を掛ける。今度は躊躇うことなく、扉は力一杯に開かれる。

 この先にあるのは物語の《中心》だ。
 さて、この物語の《中心》に何があるのか。《中心》で何をするべきなのか。

 とりあえず、愛でも叫んでみようかしら?

 愛は叫ぶもんじゃなくてもっと奥深くにたゆたうものなんだけど、今の私は冗談じゃなく叫んじゃっても全然構わない気分なのだ。
 私は臆することなく《中心》に向かって歩き出す。
 ねえ、零人、あなたに逢える気がするよ。


≪第一章『千夜子』 了≫

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千夜子-20

 仲村由里音の家を前にして「あれ?」私は違和感を覚える。
 外壁も門扉も見上げた屋根も、外観には何ら変わりはないけど、どこか以前とは違った雰囲気/威圧感を感じる。
 でもその感覚は拒絶よりか歓迎、とまではいかなくとも好意的に私を迎えているようであって、でもやっぱり底辺からもや~っとした恐怖心が立ち上ってくるようで私は確信する。
 やっぱりここなんだ。
 蒼井琴璃は半開きの門扉を開けて入っていく。その制服の背中に向けて意外な言葉が私の口をつく。
「…ごめんね」
「はい?」とドアの前で琴璃が振り返る。「何か言いました?」
 私は頭を振って「あ、いや、何でもない」と応えるけど分からない。何で謝ってんの。何が、どう「ごめんね」だというんだろう。
「行きますよ」
 玄関に鍵はかかっていないらしく蒼井琴璃は玄関を開け、家の中に入っていくので私も続く。
 邸内に入るとなぜか足がすくんだ。この違和感は何だ。周りを見渡しても別段変わったところがあるわけでもない。
「何ぼ~っとしてんですか?」
 見ると蒼井琴璃はすでに階段を二階近くまで上がっている。私を見下ろす少女は黒のローファーを履いたままだ。
「あ、靴」
「いいんですよ、これは」と平然と言い放つ。「そんなことより私たちはぼ~っとなんてしてらんないんです。時間なんて『ぼ~っ』としてるうちにその『ぼ~っ』を倍速で追い越して、その倍速の『ぼ~っ』のことを考えているうちにさらに倍速で時間は私たちを置き去りにしていくんです。何を躊躇ってんですか?千夜子さんがぼ~っとしてるうちに四、五カ月なんて一瞬に過ぎていくんですよ」
 何それ?全然分かんないんだけど。
「千夜子さんが一歩目を踏み出すか踏み出すまいかってしてる間にあらゆる事象は千夜子さんを追い越しちゃうんです、っていうかもう追い越されてるし、なんなのもう!」
 なんなのもう!はこっちの台詞だ。
「あ~じれったい!今何月か分かってんですか?」
 …はい?
「二月ですよ」
 …え?十月じゃないの?
「だ~か~らっ!分かんないかなぁ。ここは二月なんですよ、千夜子さんの知っている、あの二月なんです!」
 私はそこでようやく口を開く。
「…あなたは一体誰なの?」
「私は蒼井琴璃、名前のまんまの青い小鳥、千夜子さんが幸せか幸せじゃないのかどう感じるか分かんないけど、私にはそんなこと知ったこっちゃないけど、私はあなたを導いてあげるの、そういう役割」
 そう言うといきなり蒼井琴璃のスカートの中から大量の鮮血が噴き出し、バランスを崩した琴璃は階段を転げ落ちて来るけど血まみれなんて気にしない顔で悔しそうに呟く。
「やべえ、思ったより時間ないじゃん、何だよも~~~!」と琴璃は私の手を掴んで引っ張る。「早く!」
 ようやく私の体は動き出す。靴を脱ごうとすると琴璃に「だから靴はいいんだって!」と急かされる。
 何があったの?
 何で怪我してんの?
 ひょっとして蒼井琴璃ちゃんもすでに犯人に襲われたってわけ?
 それを隠してまで私を待っていたってわけ?
 私を導くために。
 どこに?
「考えてる時間なんて本当ないんだから、くそっ!痛えし!もうちょいなんだからね、がんばれ私!」
 鮮血を垂れ流しながら階段を上る蒼井琴璃に気圧され、私も靴のままガシガシと赤濡れた階段を琴璃に続く。
 琴璃はそのまま階段を三階まで進んだ。琴璃から流れる赤が一段一段と血溜まりを作り出している。私はそれを目で追いながら一歩一歩足を繰り出す。まるでヘンゼルが落とした白い小石を頼りに家路に着いたように。時折明かりを反射する血溜まりを見ながらそんなことを思う。
 これが童話ヘンゼルとグレーテルなら私の行き着く先にあるのは魔女の住むお菓子の家だ。
 でもここにはヘンゼルがいない。
 グレーテルはたった一人で魔女にどう対峙したらいいのかな。

 考えるな。
 置いて行かれる。
 そんなの、嫌だ。

 そうして私は三階にたどり着く。
 すると蒼井琴璃は糸が切れたようにすとんとその場にへたり込んだ。
「琴璃ちゃん!大丈夫?」
 琴璃は私に応えず虚ろな目で一点を見つめている。
 その視線の先にあるのは仲村由里音の部屋のドア。
 やっぱりそうなんだ。
「ここ?」
 肯定とも否定とも取れない無表情で私をみつめる琴璃の口元が微かに動く。
「…ぁ、…ぁん…」
「何?」
 私はその小さな唇に耳を寄せる。

「…ハッピーバレンタイン」

 そう言うと蒼井琴璃は今度は力強くにっこりと笑った。
 
 

千夜子-19

 ばあちゃんが存在しないなんて有り得ないっつうの。

 独りごちて愛車べべ子のアクセルを踏む。赤尾煙草店に居続けることは苦痛だった。困惑と焦燥、その他もろもろ。それらを振り払いつつ、私は吹斗市の仲村由里音の家に向かっている。とりあえずスタート地点から再開してみるべきなのだ。と、天海橋の信号に捕まる。
 ばあちゃん=赤尾マスの問題は一旦ペンディング。ばあちゃんが存在しないという話を認めるわけにはいかないけど、イコールそれはばあちゃんは死んでいないと見做すのは強引なポジティブシンキングかもしれないけど私の中ではそういうことにする。だから私が見た(?)死体はばあちゃんではないし、むしろ《赤尾マス殺害事件》そのものの存在すら現時点ではあやふやなのだ。
 だから私はそもそもの出発点である仲村由里音失踪事件からやり直すことにした。
 信号が青に変わり、私は橋を渡って吹斗市に入ると側道に逸れてべべ子を停める。ダッシュボードから取り出すのはばあちゃん=赤尾マスから貰った手帳だ。
 ともかくここまでの登場人物について整理していこう。いろんなことが一斉に起きて波にさらわれたように散り散りになっている。一つ一つを再確認するために、私は最初に携わった人物から挙げ手帳に書き込んでいく。

・仲村由基雄
・仲村由里音


 そこで《仲村由里音》から矢印を伸ばして《失踪》と書き加える。

・仲村由里音→失踪

 あ。先ずはこいつか。私は二人の名前の上にその名前を書いて丸く囲む。

《セバスチャン・スピーカー卿》

 次に瀬戸内雀尊、そして電話で話した由里音の友人である蒼井琴璃と消息不明の同級生たち、そして存在すら否定されているばあちゃんの名前を続ける。
 雀尊には一度電話したが繋がらなかった。ただ私から連絡を取る気がないだけだったりもする。少なからず瀬戸内雀尊に不信を抱いていることは否定出来ない。だから現時点では瀬戸内雀尊は消息不明とする。
 最後に赤尾マスの名前を書いて矢印の先に《存在しない》と書き込んで手を止める。私は赤尾マスが《存在しない》とは思っていない。私は希望的観測を踏まえて《存在しない》の部分に二重線を引き《失踪?》と書き加える。

《セバスチャン・スピーカー卿》
・仲村由基雄
・仲村由里音→失踪
・瀬戸内雀尊→消息?
・蒼井琴璃
・神野芽久美→失踪
・他同級生数名→失踪
・赤尾マス→失踪?


「…そして、誰もいなくなった」
 いや、全員ではない。
 私は手帳を閉じると再びアクセルを踏む。
 由里音の部屋にあったパソコンのディスプレイに並んでいた三つのひらがな。しちし。その単純過ぎた暗号から導かれた《DAD》。
 そこから話がおかしくなった。そして私はそこで何かを逃した。やはり《DAD》、つまり《父親》である仲村由基雄が鍵を握っている。《DAD》がそのまま仲村由基雄を示しているかは依然曖昧だし、由基雄が犯人だなんて根拠の無い答えを出すつもりはないけど、結論として仲村由基雄はめちゃめちゃ怪しい最重要人物に違いないのだ。
 私が探していた《入り口》は冷蔵庫の扉の中にあった。私の記憶の中でも頭の中でもなく目の前にあった。《入り口》に対する《鍵》はまさしく仲村由基雄なのだ。
 それからのことはそれから考えればいい。

 そんなことを考えながら私は吹斗ニュータウンの外れにある仲村由基雄の家の前にべべ子を停める。
 もしかしたら仲村邸も存在していなくて仲村由基雄も由里音も端っから存在しないんじゃないか。頭の片隅にあった微かな予測は外れて、その片流れ屋根のモダンな三階建ては当たり前のように存在している。そして門の前には制服姿の少女が立っている。

 少女が立っている。

「由里音ちゃん?」
 車から飛び出した私に向かって少女もこちらに駆けてくる。
「千夜子、アルフライラさんですね?」
「仲村由里音さんね、とにかく無事で良かった」
「違います」
「え?」
「だから違いますって。私です。電話で話した蒼井琴璃です、はじめまして」
 少女はそう言って笑いかけると長い髪が揺れた。そう言えば仲村由基雄に渡された写真の由里音は髪が肩に届いていなかった。
「でも、どうして私のことが分かったの?」
「え?だって違うんですか?」
「いや、そうだけど」
「だってここに来るのは千夜子さんしかいないから」
「そうなの?」
「そんなことより私にも届いたんです」
 蒼井琴璃が鞄から取り出したのはすっかり見慣れた白い封筒だ。
「で、中にカードとこれが入ってたんです」
 手渡された封筒の中には二つ折りのカードと一緒にひと回り小さなカードが入っている。そこには縦横に幾つかのラインが走り、そこに四角い目印が幾つか書き込まれていて中央の四角形が赤く塗られている。
「地図?」
「それがここなんです」
 私はその三階建ての建物を見上げる。片流れの屋根がずうんと空に突き刺さっているように見える。
 
 

千夜子-18

「では、話を整理させてもらいますね」
 土佐と名乗った巡査は手帳に書き込みながら言う。
「えーと、あなたが帰宅したところ、この居間に、えー、赤尾……何さんでしたっけ?」
「マスです。赤尾マス」
「そうでした。その赤尾さんの遺体が居間、つまりここですね、居間の卓袱台の上に置かれていた」
「…はい」
「しかも遺体はミンチにされており、さらにそれは四角い立方体にされていた」
「…はい」
「そこであなたは何故かその立方体の遺体を台所にある冷蔵庫にしまった」
「…はい」
 そこで土佐巡査は手帳から顔を上げる。
「で、その遺体はどうなったんでしたっけ?」
 私は答える。

「だから、なくなっちゃったんです」

 頭を掻きながら「なるほどね」と呟く土佐巡査の目には疑念が満ち満ちている。
 冷蔵庫は空っぽだった。
 私だって分かんないよ。本当になくなっちゃってたんだから。

 私はそこで立ち尽くす。
 《入り口》を見つけたと思ったのに。
 箪笥の上に横たわる日本人形と目が合う。

 あの部屋で私はココアパウダーにまみれチョコレート型のなっていた遺体を見つけ、その瞬間思った。このままでは可哀想だ。箪笥の上に置かれたガラスケースから中の日本人形を取り出すとそこにそれを詰めた。私にはそれが赤尾マスの遺体だという概念がなかった。とはいえ詰め終わった時には「箱入り娘ならぬ箱入り婆ちゃんだね」と考えていた。
 冷蔵庫の中身を取り出して全部ゴミ袋に捨て、そこにガラスケース入りのそれをしまった。霊安室代わりだったのかもしれない。ってこれは後付けで私が考えたこと。私は冷蔵庫のドアを閉め、次に赤尾マスの通うフラミンゴ教室に電話をかけて体調不良による長期欠席を伝えると居間のテーブルを布巾がけして掃除機をかけると割った姿見を抜けて……。
 ここが《入り口》から抜けてきた世界。というより私は日常に戻って来ただけだ。そもそもあの《記憶の宮殿》って何だったんだろう。
 私が見たあの光景は本当の記憶だったのか、もしくは何らかの力で書き換えられている世界なのか。それとも単なる夢とか妄想の類いなのか。それなら私はちょっとした気狂いってことになるし、それにしては全てが鮮明過ぎる。

「あなたが遺体を発見したのは随分前ですよね。発見から通報するまで何をしていたんですか?」
 土佐巡査が私の思考を遮って言う。
「店番をしていました」
「そうじゃなくて、何故発見から一ヶ月近く経った今になって通報したのかってこと」
「……面倒くさかったから」
 土佐は苛立った様子で一層大袈裟に頭を掻き出した。本当にボリボリと音が聞こえそうなくらいに。実際頭からボリボリなんて音がしたら掻いたそばから頭の砕けて破片でも零れてきそうだ。
 土佐巡査が「それで一ヶ月も放っておくなんて……」と呟くと彼のポケットから小さな振動音が聞こえ、土佐巡査は「失礼」と断って携帯電話を取り出す。「はい、土佐です」そう言いながら私に背を向けると「ええ」とか「やはり」とか聞こえてくるけど、私は土佐の足元に小さな光を見つける。土佐に気付かれないようにそれに人差し指を押し当てて拾う。
 それは小さな鏡の破片だった。あの姿見の。人差し指の中に歪な私が見える。
「どうかしましたか?」
 土佐が私を見下ろしている。
「いえ、ゴミが」私は指先についた欠片をゴミ箱に捨てる。「電話。何か分かったんですか?」
「あぁ、そうですね」土佐は歯切れの悪い表情で続ける。「念の為と思い調べてもらってんですけどね」
「はい」
「この住所に赤尾マスという人物は住んでいません」

 え?

「赤尾マスって誰ですか?」

 は?
 赤尾のばあちゃんがいない? 存在していないってこと? なんで?
 だって、ずっと、居たし。
「……あの」土佐は私の顔色を窺うように言った。「大丈夫ですか?」
「何が?」
「いや、ですから、その……」
「何? 大丈夫ですかってあたしの頭のこと言ってんの? 脳味噌のこと言ってんの?」
「いや、ですが、現場には遺体がない、そういった形跡もない、そもそも被害者自身が存在しない。と言うことはですね、これを事件として扱うことはですね、非常に……その立件が難しく……」

 土佐巡査は「引き続き捜査はいたします」と丁寧に帰って行った。でもきっと狂人の戯れ言だと思っているんだろう。捜査なんてしてくれるわけがない。
 冷蔵庫を前に私は座り込んでいる。開け放たれたそこから冷気が頬を撫でる。
 それを冷蔵庫の奥に貼り付けてある。
 私はその封筒に手を伸ばす。中身なんて見なくたって分かっている。
 中から二つに折られたカードを開く。

『親愛なる 千夜子さん』

 やっぱりここが《入り口》だったんだ。そして私はやはり自分で全ての事件に向き合わなくてはならないんだ。
 私は双子探偵、千夜子アルフライラ。
 さぼっていた分はここから取り返す。
 
 
 

千夜子-17

 古びたドアの先は赤尾マスの家の台所だ。見慣れた光景と一緒に強烈なチョコレートの臭気が鼻孔から私に流れ込んでくる。テーブルに置かれた青色のエコバッグからは野菜や牛乳、魚の切り身が顔を出している。そのエコバッグは私がプレゼントした物で、赤尾のばあちゃんは買い物に行く度にわざわざそのエコバッグを手に「これ持ってくだけでポイントがもらえんだよ、もうけもうけ」と笑うのだ。
 赤尾マスの名前を呼ぼうとしても声は出ず、足がすくんで動くことが出来ない。
 そうだ。
 私はこの先を知っている。だから何も出来ない、ではなく何もしないのだ。
 この先にある光景は……。
 ここは私の記憶の宮殿。私の記憶で構築された世界。私の足がすくむのは己の記憶をなぞることを、追認することを拒んでいるからだ。
 人間の記憶ってどうして厭な記憶ほど鮮明に残ってしまうんだろう。忘れてしまいたいのにご丁寧にこんな部屋までこしらえて保存しているなんて。こんな光景は記憶の彼方に追いやってしまいたいのに……あ、ここが記憶の彼方なのか。ここは記憶の宮殿の奥の奥のさらに奥にある部屋なのかもしれない。
 記憶の彼方に追いやられた部屋。追憶すること自体を拒絶する部屋。
 でも、私は思い出す。こみ上げる吐き気と同時に記憶が、鮮明なビジュアルを伴って、まるで他の記憶を掻き消すように私の中に溢れてくる。私の内側から甘い匂いと共に私を塗り込めてくる。
 台所の先、ガラス戸の向こうにある居間には変わり果てた赤尾マスの姿がある。めっためたに切り刻まれて、ココアパウダーやら砂糖やらをまぶされて成形された赤尾マスだった四角い物体がそこにある。
 チョコレート。
「来るな!」
 ガラス戸の向こうから声がする。オレンジ色の灯がガラス戸に揺れている。ストーブの暖気は台所にまで伝わってくる。
 私は私の中でその光景を、事実を、記憶を遮断していた。そうして私は赤尾煙草店の留守番をしていたのだ。赤尾マスはただ留守にしていたんじゃない。赤尾マスはすでにいなかった。私は赤尾のばあちゃんのいない赤尾煙草店で、ただ店頭に座って空を眺めていたのだ。これが嘘だったらいいのに。どこからか『ドッキリ』のプラカードを持ったおじさんが入ってくればいいのに。ふうわり流れる雲を眺めながら私は、過ぎゆく時間を眺めていたのだ。
「来るな!来ちゃだめだ!」
 声は大きくなって私の欠けた小指がそれに呼応するように熱を帯びる。
 その声は私に促しているんだ。早くこっちに来い。この有り様を、見ろ。
 足はすんなり動いた。私は流し台に向かい、棚から包丁を抜き出そうとしてやめる。そして流しの脇に立てかけられた金属バットに手をかける。料理中に強盗が忍び込んだ時に役に立つ。ピンポイントに配置された赤尾のばあちゃんの防衛策。ボールを打ったことなんて一度もない金属バットを手に取る。
 私は私の記憶と対峙する。この先に全ての鍵がある。荼吉尼様の部屋で踏み潰された零人は言っていた。
「君は君自身の記憶の中で『入り口』を見つけるんだ」
 それが《お菓子の家》の入り口なのか、それとも仲村由里音を見つけ出すための糸口なのか、そうでない何かなのか。この先にあるのは真実なのか。セバスチャン・スピーカー卿が作り出した記憶なのかもしれない。あいつは何らかの方法で私の記憶の中に入り込んでいるんだから。
 でもそんなことはどうでもいい。
 私は何を見たのか。
 私は、何をしたのか。
 全ての答えはこの先にある。全てがぐちゃぐちゃにこんがらがり過ぎている。余計な思考が増え過ぎている。
 目の前の一つ一つをタイムリーに片付けないとならない。
 シンプルにいく。
 ガラス戸の向こうに人影が確認出来る。近い。私は金属バットを頭の上に構える。
 かっとばせ、千夜子。
 右手でガラス戸を開く。
 かっとば、せいっ!
 一気にバットを振り下ろす。
 鈍い音。目の前にいたのは顔が真っ黒で中心に向かってぐるぐると渦巻きが出来ている。渦巻き男はとっさに出した左腕でバットを受け止めていた。弾ける腕時計がゆっくりと見える。
「お前、何てことしてんだよ」
 渦巻き男は言う。
 これが、誰なんだっけ?
 記憶はいつだって都合良く曖昧だ。
 私は再度振りかぶり、躊躇わずに二発目を渦巻き男ね頭に叩き込む。
 炸裂。渦巻き男の脳天から亀裂が走るとその姿はキラキラと弾け飛んだ。
 残ったのは割れた姿見だ。ひび割れた隙間に映るのは、血まみれた、それは私だ。
 私は金属バットで鏡を全て叩き割る。その先に暗闇が広がる。
 入り口は見つけた。

 

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