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零人-21

 零人は八文字アリスを押し倒すと、左手で彼女の右手を押さえ付け、右手でその体をまさぐる。乳房を揉み、ショートパンツの上から尻を鷲掴む。強引に唇を奪い、舌を捩じ込み、口内を舐め回す。徐々に脹らみ始めた股間を彼女の太股の間に・・・なんて事はしない。
 八文字アリスは原始人顔で赤尾マス殺しの犯人。挙げ句、今は零人自身の命を狙っている。
 何処をどう取っても色っぽく展開する話ではない。
 とは言え、零人が八文字アリスを抱きすくめ、押し倒したのは事実。
 応接机やソファーをいとも簡単に切り裂いた八文字の攻撃方法は特殊加工された糸による斬撃。糸による斬撃の理屈は幾つかある。そして、そのどれも基本にあるのは糸の張り、テンションだ。ならばそのテンションを殺す間合いへの接近と、それを操る右手を捉え封じるのは、防御策としては最良の筈。
 と言ってこの状況・・・いつまでも続けていれるモノではない。
「うぎぎぃ」なんて呻き、零人の束縛から逃れようとする八文字はグネグネと体を捩らせる。
 それは、まるで巨大な爬虫類の様で、その力は尋常ではなく、いずれ振り払われてしまうだろう事は零人本人にも容易に判断出来た。
 考えろ。何か・・・何かないか?この状況を打開する方法。
 取り敢えず先手は封じたのだ。次はこちらの番なのだ。
 しかし、この寝転がった体勢からの殴る蹴るの攻撃は効果が望めない。
 ならば、何か武器を・・・。
 重い物は駄目だ、左手で八文字の右手を押さえたまま、右手一本で使える武器・・・。
 零人は首を上げ、辺りを見回す。
 その瞬間。
 ・・・!!
 八文字がブリッジの要領で体を反らす。
 ブワリと零人の体が宙に浮き、八文字の隣に転がる。
 その勢いで横に伸びた零人の右手が何かに触れる。
 確認する間もなく、半ば条件反射的にそれを掴む。
 布?
 感触から判る。布だ。そして、これは恐らく、右手一本で扱える。
 零人はその布を思いっ切り八文字の顔面に叩き付ける。
 が、ブワサッ・・・と、布は空気を孕み広がり、勢いなく八文字の顔に覆い被さる。
 それが八文字にどれ程のダメージを与えたかと言えば、恐らくは無。でも、その行為は無意味ではない。
 不意に布が顔に被さるという出来事に、八文字は少なからず仰天し、そこに隙が出来た。
 零人はすかさず体を起こす。
 布の正体を確認する。
 ジャケット。
 それは零人のジャケットだった。
 零人は右手を素早く引寄せ、それを八文字の顔から引き剥がす。と、同時にその場を飛び退き、いまだ寝転がり事態の把握に手こずっている八文字の頭上へ回り込む。
 それは、一瞬の行動。
 恐らく、突然ジャケットを引き剥がされ、視界の開けた八文字には、瞬間、零人が消えた様に見えた筈だ。
 しかし、これはただのその場しのぎ。咄嗟の奇策。大切なのはその次の策。
 零人はジャケットのポケットに手を突っ込む。そしてそれを取り出す。
 数個あるポケットの中から一発でそれを見付け出せたのは、ただ単純な幸運だった。
 だが、故に、零人は感じる『運は俺に向いている!!』
 立ち上がり体勢の立て直しに掛かっている八文字に、零人は死角から飛び掛かり、その顔面にジャケットのポケットから取り出したそれを押し付ける。
 ハッとした様に、八文字の手が零人の腕を掴む。
 零人は構わず、それをより強く八文字の顔面に押し付ける。
「ぎっ!」八文字が鋭く悲鳴を上げて一瞬体を硬直させる。そして零人の腕を掴む力を強める。が、もう遅い。
 これが幸運の差だ。
 八文字の顔面に押し付けられたそれは、零人の予想通りの形状をしていて、零人の予想通りに働いた。
 それは八文字の悲鳴と一瞬の硬直で判った。
 零人は八文字の後頭部を押さえ逃げ場を奪い、より強く捩じ込む様にそれを押し付ける。そして、最後にそれを擦り付ける様に思いっきり横に引く。
 ゾリッ・・・っとした不快な感触。
 八文字が「ぎぃいぃぃーー!」と叫び、仰け反り、顔を両手で覆う。
 八文字の顔を覆った両手の隙間から、ポタポタと血が垂れる。
 零人は八文字から身を離すと、それを床に落とす。それは銀色の、今は八文字の血で真っ赤に濡れた、腕時計。八文字が探偵事務所で壊した零人の腕時計だ。
 硝子が砕け、ネジやバネ等の機械部分が細かく鋭利に露出した文字盤には、ゴッソリと八文字の顔面の血や肉片がこびり付いているだろう。
 確認するまでもない、と言うか、わざわざ見たくもない。
 と、零人は血みどろの顔面を押さえ「あうっ」とか「ひっ」とか声を漏らし、のたうっている八文字に向け駆けると、その勢いのまま彼女の胸にブーツの踵を当て、蹴り押す。
 八文字は一、二メートル後方に吹き飛び、数歩足踏み、その勢いで後頭部から窓硝子に突っ込んだ。
 窓硝子が砕け大小様々な多角形の破片に変わる。
 八文字がその破片達と共に窓の外に消える。
 落ちた・・・。
 そう思った。
 そうだ、ここは確か・・・地上五階。
 零人は硝子の砕け落ちた窓から階下を見下ろす。窓の下は真っ直ぐに地面に繋がっていた。
 その地面は、恐らく砕けた硝子の破片が陽光を反射しているのだろう。キラキラと綺麗に輝いていた。
 そしてそこに、八文字アリスの姿はなかった。
 が、彼女がそこへ墜落して絶命した事は明らかだった。そこにはそれに見合うだけの赤い痕跡が広がっていた。そして、そこに広がる物は、この高さからではハッキリと確認は出来ないが、八文字の血液だけではない様に見えた。それが何なのかは零人には分からなかった。だが、その血液に混じり撒き散らされた八文字アリスの何かが、彼女の死を決定付けていた。

 チャッチャラーラ、チャッチャラーラ、チャララララーラ、チャラッチャ・・・。
 突然の聞き慣れたフレーズに、零人はビクリと振り返る。
 その音の独特な軽薄さから、それが携帯電話の着信音である事は直ぐに判った。
 鳴り続ける有名なチョコレートのCMソング。
 零人は室内を見回し、その音源を探す。
 室内は八文字アリスとの乱闘で酷く散らかっていたが、元々物のない殺風景な部屋だったので、それは直ぐに見付かった。
 むしろ、何故今まで気付かなかったのかと思える程に、堂々とその携帯電話は、その部屋の隅に設置された洗濯機の様な巨大なミキサーの上に置かれていた。
 茶色い携帯電話。
 零人はそれを手に取り、ディスプレイを覗く。
 ディスプレイには『セバスチャンスピーカー卿』の表示。
 零人は通話ボタンを押し、携帯電話を耳にあてる。
 一瞬の沈黙の後、声が聞こえる。
「・・・もしもし・・・ああ、良かった。漸く繋がったた。何度もかけたんですよ。それにしても、時間が掛かりましたね。アナタならもっと早くにここへ辿り着けると思っていたのに・・・でも、まぁ、辿り着けたのだから、良しとしましょう」
 小さく、キシ・・・と、プラスチックの軋む音がする。
 携帯電話を握る手に思わぬ力が入る。
「では、早速ですが、アナタを今から『お菓子の家』に案内します。招待状は用意してませんが、問題ありません。アナタなら顔パスです」
 零人は何か言おうと口を開いた。しかし、言葉なんて何一つ出て来やしなかった。
「そこからの道順は分かりますよね?」
 道順?
 そんなモノは見当も付かない。
 いや、そんなモノはどうでも良い。
 そんな事よりも今は、先ず・・・。
 そんな事よりも他に、先ず・・・。
 ・・・言葉が、出ない。
 何を言いたいのか、何を言うべきなのか、それは分かっている。
 でも・・・言葉が出てこない。
 言葉なんて・・・出て来る筈がない!
 こんな・・・こんな・・・こんな!!
 零人は堪らず携帯電話を右手から左手に持ち変え、右手の小指を、口に含む。
 関節一つ短いその指を、噛む。きつく。プンッ・・・。皮膚の裂けた感触。痛み。鉄の味・・・。
「お前・・・お前なのか・・・」
 零人の口からザラザラと掠れた声が漏れる。
 途端、小指の噛み痕から大量の血液が噴き出す。それは零人の口内を満たし、遂には唇の端から溢れ出す。ダラダラと顎を伝い、シャツを汚す。
 そして電話は「それでは、心よりお待ちしております」と言い残し、プツリと呆気なく切れた。
 零人は慌てて、不器用な左手で携帯電話のボタンを手当たり次第に操作し、再度回線を繋げようと試みた。が、それは繋がる事はなかった。
 右手に持ち直し、キチンと冷静に操作しようかとも考えたが、小指の出血を考えると、それは叶わない事だと容易に判断出来た。それに、何よりその携帯電話のディスプレイの左上に表示された『圏外』の文字が、回線の遮断、つまりはその携帯電話の死を報せていた。
 零人は一度大きく息を吸い、脳に酸素を十分に送り込む。
 冷静になろう。
 ・・・さて、考えなければ。これからの事を・・・落ち着いて・・・。
 回線は遮断された。
 手掛かりは途絶えた。
 いや、違う。考える事はない。考える事なんて何もないんだ。これからの事は既に決まっている。
 俺は『お菓子の家』へ招待されたのだ。
 道順?
 そんなモノは見当も付かない。
 そんなモノはわかる筈がない。
 そんなモノは・・・最初からありはしないのだから。
 それは、既に解いた謎だ。
『思う場所に思う時間』がそうなんだ。
 零人は目の前の洗濯機の様な巨大なミキサー、赤尾マスをミンチにしたであろうミキサーの蓋を開ける。
 ガコン。
 蓋は簡単に開く。
 中を覗く。
 そこには、穴が開いていた。
 真っ暗と言うより真っ黒な、深さや底と言った概念すら感じさせない、ただ何処迄も続いてそうな黒い空間。
 その中から温度のない甘い風が吹き、零人の前髪を揺らした。
 その甘い香りは・・・。
 零人はグイっと、その穴に身を乗り出す。
 チョコレートの香り。
 右手の小指の出血は、シタシタと止まる気配もなく床を汚す。
 零人はそのまま、穴に頭から潜り込む。
 そしてスッポリと闇に包まれる。

 大丈夫、心配ないさ。
 もし道に迷っても、この血の跡を辿れば、又ここへ帰って来れるから・・・。

≪第一章『零人』 了≫
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零人-20

 大仰な音を鳴らし、真っ二つに別れた応接机が床に落下するのを、ソファーの後方に背中で着地しながら耳で確認し、零人は間髪入れずに、両足と背中のバネをフルに使い、ソファーを八文字アリスがいるであろう方向へ蹴り押す。
 ソファーの行方は確認もせず、零人はまたも間髪入れず、今度は後方に三、四回転でんぐり返り、身構える。
 そして、そのまま、立て膝の状態のまま、八文字アリスに目をやる。
 悠然とソファーに腰掛けた八文字アリスの前には、真っ二つに別たれた応接机と、これまた、応接机同様に八文字アリスが斬ったのだろう、真っ二つに別たれたソファー。
 八文字アリスが立ち上がる。
 スラリと伸びた手足、真っ白い肌、下着か水着と言っても過言ではない程に面積の小さなショートパンツとカットソー。
 つくづく思う・・・状況がこんなバトルな状況でなく、八文字アリスがあんな原始人の様な顔でなかったら・・・と。
 零人は八文字アリスに合わせて立ち上がり、右足を半歩引き、目は八文字アリスから逸らさぬ様にし、上半身は右半身を軽く後方に引き、少し背を曲げて、両の拳は顎の前辺りに配置。
 武術の心得等一切無いが、一応、少なからずの威嚇と牽制。
 ・・・さてと。
 この威嚇と牽制の効果の程は取り敢えず置いといて・・・八文字アリスが如何にして、あの応接机やソファーを真っ二つに斬り裂いたかを知らなければ・・・。
 戦うにも、逃げるにも、先ずは相手を知る事。
 それは、赤尾マスに教わった。
 各種格闘技から武術に気功、礼儀作法にお茶にお華、合わせてウン十段って程のスーパー婆、赤尾マスに・・・あっ。
 零人は危うく出しそうになった声を堪える。
 そうだった、コイツが赤尾マスを殺したのだ。この八文字アリスが・・・もう一度言うけど、各種格闘技から武術に気功、礼儀作法にお茶にお華、合わせてウン十段って程のスーパー婆の赤尾マスを、殺したのだ。
 零人は危うく漏れそうになる溜め息を堪える。
 完全に失念していた・・・いや、むしろ、その事は考えてもなかった。
 そうなのだ、八文字アリスは、そのレベルの人間なのだ。
 しかも・・・。
 挙げ句、零人は大変な見誤りをしていた。
 八文字アリスからセバスチャンスピーカー卿を引っ剥がせば、八文字アリスは壊れる。それで勝負は着く。俺の勝ち・・・そう思っていた。
 が、間違っていた。
 八文字アリスからセバスチャンスピーカー卿を引っ剥がし、八文字アリスを壊す事は・・・八文字アリスを切れさせる・・・つまりは、八文字アリスのリミッターを解除する事だったのだ。
 甘かった。
 完全なミスだ。
 最初から分かってた筈だ。赤尾マスを殺したのが八文字アリスなら、その実力位、最初っから想像出来た筈だ。
 なのに、何故警戒し、前以て対策を準備していなかった。とんだ間抜けだ。とんだドジだ。
 これは、大元からの大失態だ・・・なんて、愚痴ってもいられない。
 事は急を要する。
 次の手が来る前に・・・あの応接机やソファーを斬り裂いた技が、自分に向けられる前に、その正体を・・・。
 零人は、八文字アリスの身体に視線を這わす。
 八文字アリスを探る。
 何だ?何を使った?何を使い、何をした?
 応接机やソファーを斬り裂く手段。
 刀?
 それなら、見て判る。
 八文字アリスはそんな物を持ってはいない。
 仮に隠したとして、そんな大きな物をどこに隠す?
 なら、掌や衣類や何かに隠せる大きさのナイフ?
 斬れるか?ナイフで。簡単に隠せる程度のナイフの刃渡りで・・・。
 では、もっと別の・・・。
 例えば?
 例えば、レーザーやビーム的な・・・。
 飛躍し過ぎだ。
 ふと、赤尾マスをミンチにした巨大ミキサーが頭に浮かんだが・・それでも、さすがに、ビームサーベルにレーザー銃は飛躍し過ぎ。
 他に・・・。
 手刀?
 足刀?
 まさか、そんなの、まるで漫画だ。
 零人は思い出す。
 あの時の・・・あの、応接机が真っ二つに斬られる前の八文字アリスの行動。
 右手で左の肘辺りを、擦る様な、摘む様な・・・。
 右手・・・。
 そして零人は見付ける。
 右手の人差し指の第一関節と第二関節の間の不自然な場所に嵌められた、よっぽど注意して見ないと見過ごしてしまいそうな程に細い指輪・・・いや、違う。指輪じゃない・・・アレは・・・。
 零人の視線に気付いたのか、八文字アリスが右手をピクリと動かした。
 と同時に、八文字アリスの右手の人差し指の先から、光の線がスッと流れた。
 ・・・糸?
 間違いない。この距離、八文字アリスの攻撃を警戒して零人が取った三、四メートル程の間合いからは、はっきりとは視認出来ないが・・・確かに、それは八文字アリスの右手の人差し指に結わえ付けられ、緩い螺旋を描き床に伸びている・・・糸。
 それで、斬ったのか?
 応接机を・・・ソファーを・・・。
 聞いた事はある。
 そういう技。
 そういう武器。
 特殊な加工を施した極細の強化ワイヤー。締める、縛るだけではなく、斬る事も出来るという・・・。
 それに糸なら、どれ程面積の小さな衣類にだって容易に隠せる。
 ・・・いや、あの仕草。あの、右手で左の肘辺りを擦る様な、摘む様な仕草を思えば・・・身体か・・・八文字アリスは、己の身体の中に、あの糸を・・・。
 つまりは、そういう事か。
 つまりは、そういう者か。
 八文字アリスは・・・つまりは、そういう類いの者だったという事。
 それに気付くやいなや、零人は八文字アリスに向け一気に駆け寄る。距離にして僅か三、四メートル。ものの一瞬で零人は八文字アリスにたどり着く。そして、抱き着く。両腕で強く八文字アリスの背中を抱き締め、脚を絡ませ、腰を押し付け、頬を寄せる。
 
 一瞬、八文字アリスの体が緊張するのが分かった。
 
 

零人-19

 キリキリキリキリ・・・。
 耳障りな軋る音。
 キリキリキリキリ・・・。
 八文字アリスの壊れる音。
 キリキリキリキリ・・・。
 応接机を挟み、向かい合う八文字アリスは項垂れていて。零人からは、その頭頂部から肩、窮屈そうに突き出された真っ白い膝位しか見えない。
 顔は髪の毛の陰になり、窺えない。挙げ句、その全体を優美という言葉以外に評しようのない五指を備えた両手で覆っているので・・・。
 全く、その姿は絵になる。
『苦悩する美女』とか『泣く乙女』とかいったタイトルを付けて、描いたり写真にしたりして、額縁に入れて飾りたい程だ。
 が、それだけに、零人はついつい吹き出してしまいそうになる。
 その黒く艶やかな髪の毛と、優美な指の奥に隠された顔を想像してしまうと、そうならずには到底いれない。
 八文字アリスの顔は、それ位に、その一流モデル並のプロポーションとはかけ離れた『原始人顔』なのだ。
 しかし、それはさて置き・・・。
 零人は目の前の八文字アリスを哀れむ。
 セバスチャンスピーカー卿のパッチ物。
 セバスチャンスピーカー卿の偽物。
 本人の意思ではなく、偽物にされた八文字アリス。
 己の行動の意味も知らなかった八文字アリス。
 己の行動に意味がない事も知らなかった八文字アリス。
 キリキリキリキリ・・・。
 そして、壊れた八文字アリス。
 キリキリキリキリ・・・。
 そして・・・。
 キリキリキリキリ・・・ギリギリギリギリ・・・ボリン、ボリボリ・・・ゴキン。
 ・・・。
 音が止まった。
 パッチ物のセバスチャンスピーカー卿は崩れ去った。崩壊の音と共に。
 そして残るのは本物の八文字アリス。
 上書きされたパッチ物のセバスチャンスピーカー卿が崩れ去り。目の前で踞る八文字アリスは、正真正銘の八文字アリス。
 八文字アリスの顔を覆っていた両手が下がる。
 両手がダラリと落下して、パフンとソファーを鳴らす。
 八文字アリスの顔・・・それはいまだ、俯き、髪で隠され、よくは見えないが・・・その顔辺りから、何かが数個、コロンコロンと応接机に落ちた。
 白地に赤のマーブル模様の、指先に摘める程度の大きさの・・・。
 ・・・歯・・・。
 形からして奥歯・・・。
 八文字アリスが小さく震えた。いや、震えたというより、揺れた。
 小さく、頭だけがユラユラと揺れた。
 そしてまた、応接机に数個、コロンコロンと歯が転がる。
 奥歯と犬歯が合わせて七本。応接机の上で、血液と唾液にまみれ鈍く光っている。
 ゆっくりと、八文字アリスが顔を上げる。
 先程迄と何も変らない原始人顔。ただ少し違うのは、やや頬が痩けて目が赤く充血している事と、唇の端に血液混じりの唾液が溜まっている事位。
 だが、それは、その顔は、さっき迄の八文字アリスとは明らかに違った。
 まるで別人に見えた。
 セバスチャンスピーカー卿の上書きが崩れ去ったという事から来る印象の変化・・・と、いう訳でもない様に思える。
 合計七本の抜歯による輪郭の変化・・・的な違いでもない。
 まるで、明らかに、確実な・・・別人。
 それは、確かにそうなのだが・・・言ってしまえば、確かに別人なのだが・・・。
 セバスチャンスピーカー卿のパッチ物と正真正銘の八文字アリス。確かに、その二つは別人だ。しかし、それは名前=記号の違いに過ぎない。
 それは『名は体を表す』・・・と、いう事なのか?
 八文字アリスの口許がモゴモゴと動く。
 口内を透かし見る事等出来ずとも、分かる。抜歯の傷口を舌先で触っているのだろう。
 きっと、一気に七本も歯の抜けた口内が違和感で堪らないのだ。
 すると、チゥ・・・。
 唐突に八文字アリスが唇をすぼめる。
 可愛く例えればキスの口。
 可愛くなく例えればタコの口。
 次の間。
 零人それを避ける事が出来なかった。
 ものの見事に虚を突かれた。
 生暖かい、粘性の強い液体・・・唾・・・正確には、唾や痰や涎や血液や・・・今、八文字アリスの口内から採取出来る液体全ての混ぜ合わされた物。
 成る程、あの口はこの為か・・・この液体を俺の顔面に吐き付ける為の発射口の形だったのか。
 って、畜生!油断した!
 しかも、見事に左の眼球に命中させやがった!
 とは言え、被害を受けた左目に、痛みや痺れの様な症状は出てはいない様子。後々、何かの症状が発症するかもしれないが・・・今の所、取り敢えずは即効性のある毒物等は含まれてない様だ・・・等と、安心は出来ない。何せ唾だ!痰だ!涎だ!血液だ!仮に八文字アリスが絶世の美女であっても、唾や痰の顔面シャワーを喜んで受け入れるタイプの男では俺は決してない!と、怒っている余裕もない。
 零人の生きている方の右の視界の中で、八文字アリスがそっと、右手で左の肘辺りを擦った・・・いや、摘んだ。
 その行動が、どうにも嫌な気がして・・・その、摘み方が、どうにも不安な気がして・・・零人は直感的に右足で力一杯、応接机を蹴り上げる。
 決して安い作りではない、重量感のある応接机がグワリと持ち上がる。
 それ程に思いっ切りに蹴り上げた。素足だったら、足の指を五本共軒並み骨折してもおかしくない。
 先程のシャワー後にブーツを履いて出て来た己の先見の明に喝采。する間もなく、零人は左足で床を蹴り、その勢いで後に回転、ソファーの背凭れを乗り越え様とした瞬間・・・それは一瞬の出来事で、理解するには余りに一瞬で、余りに非現実的過ぎた。
 が、理解は後回しにして・・・現実に目撃した事実。空中で応接机が斜め四十五度の角度で真っ二つに分断された。斬れた。
 そして、二枚に別たれた応接机の間から、八文字アリスの顔が見えた。
 八文字アリスは笑っていた。
 薄く口を開いて。
 ニィ・・・と。
 その口の中は、深く、真っ赤に染まっていた。
 
 

零人-18

 では・・・と、零人は口を開く。
「では、先ず、例の招待状・・・正確には招待状と招待文の入った封筒・・・アレを探偵事務所の扉に挟み込んでおいたのはアナタですよね?」
 封筒は郵送されてきたのではなく、直接誰かの手により探偵事務所に届けられた。その誰かが差出人本人であるという事はそうそう想像に難い事ではない。
「・・・はい」
 八文字は頷く。
 あの日、零人は是々絵利衣に呼び出され、屈木井九好の失踪についての相談を受けていた。その後、探偵事務所に帰宅した時には封筒は扉に挟まれてはいなかった・・・或は、それに気付けなかっただけかもしれないが・・・そして、再度探偵事務所に戻ってきて零人は封筒を見付ける。
 つまり、零人が探偵事務所内に何者かの気配を感じ、一度探偵事務所を離れてから再度帰ってくる迄の間に、八文字が探偵事務所を訪れ、封筒を届けていった。又は・・・「あの日、アナタは俺の事を探偵事務所で待ち伏せていた。が、帰宅してきた俺はアナタの気配に気付き・・・あぁ、勿論その時はアナタだと認識していた訳ではないですが・・・まぁ、警戒し、もう一度出掛けてしまう」
 そして、零人は屈木井九好のアパートに行き、室内を捜索して再度、探偵事務所に戻る。
 そして、扉に挟み込まれた招待状を見付ける。
「アナタはその間に帰宅してきた赤尾マスを殺した」
「・・・はい」
「そして、彼女をチョコレートに見立てた」
「・・・はい」
「あの機械で彼女のミンチを作って・・・」
 零人はその部屋の角に置かれた、不格好な機械に目をやる。
 恐らく、それを目的に造られたであろう機械。
 不格好な洗濯機の様な、巨大なミキサーの様な、歪で奇っ怪な機械。
 そして同時に、それを赤尾煙草店に運び込む八文字の滑稽な姿を想像する。
「・・・はい」
「そして、二階の探偵事務所に帰宅して来た俺を襲った」
「・・・」
 八文字は返事をしない。小さく首を横に振る。
 ・・・違うのか。
 ならば、逆だ。
「赤尾マスを殺し、俺を襲い、その後に赤尾マスのチョコレートを作った」
 まぁ、確かにあんな大袈裟な道具を持ち込んでの作業、それなりに時間の余裕も欲しいだろう。いくら寂れた下町の商店街の端っことは言え、出来る事なら人目の無くなる時間帯だって選びたいだろう。
 当たり前の発想か・・・。
「・・・はい」
「後、俺の携帯電話を壊したのも、アナタですよね」
「・・・はい」
 零人は、うーん・・・と唸り、少し考えて「これが、アナタがした事の全て正しいですね」と締める。
「・・・はい」
 八文字は頷く。
 その頭は、今にも床に転げ落ちてしまいそうな程に項垂れている。

 はい。
 犯人判明。
 はい。
 事件解決。

 ・・・って、これで一体何が解決したと言うのだ。
 ただ、起きた出来事を並べ立て。それを、八文字アリスが端から認めていっただけの事ではないか。

 項垂れる八文字アリス。零人が胸を張ると自然、零人が八文字を見下ろす形になる。

 その角度で、零人は八文字の頭頂部に向け言う。
「アナタは、何故、赤尾マスを殺したのですか?」
「・・・」
 八文字アリスは答えない。
 いや、答えられない。
「あぁ、すみません。うっかりしてました。これじゃあ質問がマズイですよね。この聞き方じゃ、アナタは答えられませんよね」
 そう、今の八文字アリスには『はい』と『いいえ』以外に答える言葉はないのだ。
 その呪縛を掛けたのは、零人だ。
「アナタは、自分が赤尾マスを殺した理由を知っていますか?」
「・・・」
 八文字は無言である。
「アナタは、赤尾マスのチョコレートの意味を知っていますか?」
「・・・」
 八文字は答えない。
「しかも、アレはチョコレートとしては、決定的に間違っている事に気付いてますか?」
「・・・」
 八文字は首を振る事すらしない。
「チョコレートを作るのに暖めるなんて、可笑しいでしょ?チョコレートは冷して固める物です。では、何故、冷さずに暖めたのか分かりますか?」
「・・・」
 零人は、もう八文字の返事を待たない。
「探偵事務所で俺を待ち伏せた理由。扉に招待状を挟んでおいた理由。しかも、その招待状が偽物だった理由。そして、俺を襲った理由。それも、中途半端に気絶させるに止めた理由。最後に、俺の携帯電話を壊した理由」
 零人は矢継ぎ早に並べ立て、そして・・・「それが、アナタに分かりますか?」
 八文字は無言である。
 八文字は答えない。
 八文字は首を振る事すらしない。
 零人は待つ。
 少々気長過ぎるのでは・・・と感じる位の時間、零人は待った。
 そして、漸く、八文字が答える「・・・いいえ」
 そうなのだ。知らないのだ。八文字アリスは、何一つ知らないのだ。
 何故なら・・・。

「それはね、八文字さん。それは、アナタがパッチ物だからですよ」

 八文字アリスがクラリと揺れた。
「それ等の事にはね。何一つ意味なんてないんですよ」
 八文字アリスがクラクラリと揺れた。
「アナタはセバスチャンスピーカー卿のパッチ物、つまりは偽物として、無意味に赤尾マスを殺し、無意味に赤尾マスを不完全なチョコレートに見立て、無意味に俺を襲い、無意味に俺の携帯電話を壊す様に操られていた」
「操られていた・・・?」
 零人の掛けた呪縛が解けた。
「そう、俺がここに辿り着く様に。或は、俺がここに辿り着ける人間であるかを試す為に。アナタは、文字通り身も心もセバスチャンスピーカー卿に操られていたんですよ・・・まぁ、良い様に操られていたって事に関しては、俺も同様ですが・・・」
「セバスチャンスピーカー卿に・・・操られていた・・・セバスチャンスピーカー卿に・・・私は・・・セバスチャンスピーカー卿のパッチ物・・・」
 項垂れた八文字アリスの口から、切れ切れに言葉が漏れる。
 角度的に零人からはその顔は見えない。でも、その声色で十分に判った。
 今、八文字アリスは・・・壊れた。
 その証拠に、八文字アリスの崩れる音が小さく聴こえてくる。
 キリキリキリキリキリキリキリ・・・と。
 
 

零人-17

「予てより皆様にご尽力いただいておりました”お菓子な家”が先日遂に完成の運びとなりました。
 つきましては当お菓子な家にて落成記念式典を開催致したく、ご招待状をお送りさせていただきました。
 貴方様の御来場を切に願っております。
 あなたの思う場所で、あなたの思う時間にて・・・」
「・・・」
 零人は、己の突然の行動にポカンとした顔をしている八文字を見下ろし「ね。空で覚えているでしょ」と、何処と無く自慢げに言う。
 八文字は、ポカンとしてしまった事が酷い失敗であったかの如く、慌ててその表情を零人を訝しむそれに換える。
「記憶力、良いんですね」
「まぁ、探偵ですから」
 零人は再度ソファーに座り直し答える。
「そうでしたね。名探偵チョコレートですものね」
 八文字が少し揶揄う様な口調でそう言うと、零人はまるで揶揄われている事には気付いていない風を装い、真顔で「正確には、チョコレートではありません・・・今は、ただの零人です」と首を振った。

「さて・・・」
 少し会話が逸れた。
「さっきの文章、間違いないですか?」
 零人は会話を戻す。
「ええ」
 八文字もそれに従う。
 答えを知りたいのは零人だけではないと言う事。
 とは言え、二人の知りたい答えは遠く離れた二点の場所にある。今、二人の思いが同一方向に向いているのは、たまたま、偶然に二人の進行方向が重なったに過ぎない。
 だが、それでもとかく脱線しがちなこの物語を少しでも正しい道順で進める為には、それは十分な助け。
「そうですか・・・」
 零人は続ける。
「本当に間違いありませんか?」
「ええ」
「いや、念の為、もう一回読みましょうか?」
「結構です。私もそうそう馬鹿にされたモノでもありませんから。自分で書いた文章位は、ちゃんと覚えてますよ。何なら、私だって空で読める位です。あっ、読んでみせましょうか?」
「いや、それは結構です。大事なのは俺の許に届けられた招待文が、確かにアナタが書かれた物であるかどうか?なんですから」
「ですから、間違いありませんよ。先程から言っている通り、文面も間違いなく・・・」
「本当ですか?」
 零人は故意に、八文字の言葉を遮る。
 そしてもう一度「予てより皆様にご尽力いただいておりました”お菓子な家”が先日遂に完成の運びとなりました・・・」
 八文字はいい加減呆れ顔。
「しつこいですよ」
「分かってます。しつこくしているんですから。でも、もう一度、きちんと聞いてください。これは大事な事なんですから・・・予てより皆様にご尽力いただいておりました”お菓子な家”が・・・お菓子『な』家・・・ですよ」
「・・・え?」
「ですから、おかしな家です」
「・・・」
「まぁ、確かにここは、おかしな家ですよね・・・家と言うより、俺にはただの雑居ビルのワンフロアにしか見えませんが。ここに案内してくれたあたなが、ここを家だと言うなら、ここは間違いなく家なのでしょう。ここは間違いなく、おかしな家ですよ」
「・・・」
「ここは、おかしな家で間違いないですよね?」
「・・・」
「違うんですか?」
「・・・」
「では、あなたはここを何処だと・・・まさか、本当にお菓子の家だと?」
「・・・」
 八文字は言葉を発しない。
 キョロキョロと目玉が動く、その目玉に連動する様に頭が揺れる。
 八文字は何か言いたそうに口をパクパクさせるが、そこからはパッパッ・・・といった、唇の開閉の音しか聞こえない。
 激しい動揺の表れ。
 だから言ったんだ・・・平静でいれる訳がないって。
 だが、壊れるにはまだ早い。お前は、お前の答えが朧ながらにも見えたのかもしれないが・・・俺の答えはその先の先にある。だから、まだ、壊れられては困る。お前には、今から俺の答えへの掛橋になってうのだから。
 パン。
 零人は催眠術師のそれよろしくに手を打つ。
 ビクッ。
 八文字は催眠から解かれた人のそれよろしくに、目をしばたかせ零人を見る。
「まだ、早いですよ。ほんのサワリじゃないですか」
 零人は八文字の顔を深く覗き込む。
「では・・・」
 零人は意味もなく間を作る。
「聞きます。赤尾マスを殺したのは、あなたですね?」
「・・・」
 八文字が頷く。
「ちゃんと、声に出して下さい。恥ずかしがる事はない。後ろめたさを感じる事もない。俺は、別にあなたを責める気はないんですから。これは、単なる答え合わせなんですから」
「・・・はい」
 八文字は、もう一度頷き、小さな声で答える。
「探偵事務所で、俺を襲ったのもあなたですね」
「はい」
 八文字が小さく頷く。零人はそれを確認すると、大きく頷く。
「はい。それ等は大前提です。では、それ等を踏まえて、細かく答え合わせをしていきましょう」
「・・・」
 八文字は酷く心細い表情をしている。
 それもそうだろう。
 今しがた八文字に見えた答えは朧だが、それでも、八文字の常識を覆した。八文字をひっくり返した。
 なのに・・・なのに、この探偵は、その朧な答えの細部の輪郭までを浮き彫りにしようとしているのだ・・・。
 私はその浮き彫られ、輪郭を明確にした答えに耐えられるのだろうか・・・。
 八文字アリスの思考が手に取る様に分かる。
 手に取る様に分かったから、思う。
 耐えれやしない。
 恐らく、八文字アリスは壊れるだろう。
 身も心も壊れるだろう。
 物理的に精神的に壊れるだろう。
 だが・・・。
 仕方がない。
 俺には救えない。
 八文字アリスはそれだけの事をしたのだから。
 八文字アリスは、そうなる為にここにいるのだから。
 仕方がない。
 零人は「では・・・」と、始める。
 はっ、と八文字が顔を上げる。
 縋る様な顔。
 零人はそれを無視して八文字に言う。
「今から、俺は俺の出した答えを話します。あなたはそれに○×を付けて下さい。良いですか?」
 八文字は縋る様な顔のまま答えない。
「良いですか?」
 もう一度零人が聞くと、八文字は観念した様に「・・・はい」と答えた。
 零人が八文字と出会ってから、一等に小さな声だった。
 

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